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ティラミスな夜

〜うつ明け2年目の体験記〜

この前バイトの元同僚と1年ぶりに会った。初めて業務時間外に会う約束をし、映画を観て、夕食に小さなイタリアンレストランに入った。

久々の再会にハイテンポでのトークが続いた。この女子会感は、高校生の放課後のようで私は少し懐かしい気持ちになった。

彼女が楽しみにしていたデザートのティラミスを食べながら、話題が恋愛になった時、私は元彼を下げるような文脈でこんな発言をした。

「働かない人って無理です。側で見てるとイライラするし。」

それを聞いた彼女の顔は一瞬曇った。

そして「まあ、でも働けない事情がある人もいるからね〜」と私の発言に同意はしないよの意志を弱〜くはさみ、その話題の会話は終わった。

私は、彼女の曇った顔を見た時、自分の発言をものすごく後悔した。後で分かったのだか、彼女の父親は精神障害を抱えていた。

私は彼女の心のアザにパンチするような確実な痛みを与えてしまったかもしれない。本当に申し訳ないと思う。

彼女が私に直接深くその先を言わなかった訳を推察するに、
「この人に言っても無駄。説明しているうちにお互いの見えている範囲の違いが露呈して結果傷つくのは私」と思ったのではないかなと。

ただ、それは少し違うのだ。
違うからこそ余計に申し訳ない…。


あの発言の裏

私はあの時、あえて理解者から一番遠い人のフリをして発言していた。あの発言はもし精神障害などで働けない当事者や悩みを抱えている周囲の人が聞いたら一番避けるタイプの人間の発言だろう。なぜ、あえて言ったのか。
理由はただ一つ。

自分の心を守るため。

決して彼女が病んでいそうだった訳ではなく、彼女には人並み以上の他者への共感力と、想像力の高さがあることを私のセンサーが察知した。

そういう人を前にすると私はすぐに共鳴したがる。私はそれだけは避けなければ!と虚勢を張ってこの2年間生きてきたのだ。

こうしてnoteに書きながらも、自分の弱さとずるさが嫌になるが、書く意味がどこかにあると信じて書き進めようと思う。

精神疾患を知る

私は大学に入学後、強豪といわれていた運動部に入部し、授業に部活に自主練にバイトと、そこそこハードな大学生活を送っていた。

ところが、同期の一人が遅刻、体調不良の欠席、書類の未提出、突然のネガティブ発言、かと思えばやる気ウルトラマックスデーと、明らかな異変を見せ始めた。

「私なんか価値ない」という日もあれば、「任せて!」と張り切る日もある。体調のことを鑑みて彼女の仕事分担を少なくすると「私なんか必要としてないよね」とまた急降下だ。

これを毎日聞いていると私まで吐き気や頭痛、判断力の低下が起こってきた。彼女の危うさを感じた同期のほとんどが次第に相手にしなくなり、彼女からの相談が増えた。

その頃一番きつかったことは、「誰にも言わないで欲しいんだけど、実は私双極性障害予備軍らしいんだ。」という彼女の告白だった。

以来、彼女は双極性障害予備軍という武器を振りかざし、無限に新しい言い訳を私に披露した。(※双極性障害への知識が足らず当時の私はそう思っていました。)

彼女の態度から私はまるで、「できないことを責めるなんて非常識で冷たい人」と言われている気がしたし、彼女の病名を秘密にする以上、誰にも相談できなかった。

私は「も〜また?ちゃんとやってよ〜」が半分本音であったがそれを口に出した時、彼女の中で「何度目だよ。使えな。」と変換されるのではないか、あるいは私が想像するよりひどく責め立てているように届くのではないか、と想像して軽い口調で言うことも許されないと勝手に思ってしまい更に自分を追い込んだ。

その頃から私は、吐き気と鈍〜い慢性的な頭痛(生理痛などとは明らかに違う)に苦しんだ。


不思議なことに自分の心身がガタつき始めてから精神疾患を持つ人と知り合うことが増えた。

精神疾患を抱えた人が多いところに身を置き、息をするように相手の欲している言葉を言っていた私に相談が絶えなくなっていった。

私も私で、重たい他人の悩みに寄り添い、他者を引っ張り上げることをタスクのように捉えていた。一人助けると謎の安堵と達成感がありクセになっていき、また違う悩みを聞いた。

そんなことが約1年半続き2021年6月、私自身もうつ病(メランコリー型うつ病)と診断された。

うつ病は一般的に完治ということは出来ないみたいだが、私は今何の症状もなく過ごせている。

2年はリハビリ

うつの症状がなくなり、本来のスピード感で物事をこなせるようになったことは本当によかったと思う。

本来の自分が戻ってきたぞという感じがした。それは脳と心と身体が全部自分のコントール下に戻ってきた感覚だった。
でも病院の先生にうつ状態の時に言われた言葉を思い出した。

「うつの前の自分に戻ろうとしなくていいですよ。それでうつになっているのだから。」

その言葉はうつ症状が出てる時は、「何もなくても吐き気がしたら吐き気がする前に戻ってって思うし、今まで出来たことが出来なくなったら戸惑って慣れた自分に戻ってって思うじゃん。」って思っていた。

なので、この言葉は症状が出なくなってから受け止められた。

私の場合、まるでゲームのように重い相談を受けまくっていた。症状がなくなったのも、結局環境を全変えしたことが大きかったと思う。

環境を変えると、人との距離感、言葉遣い、振る舞い、洋服、色々変えることになった。

それから、自分がうつの時、メンタルが強い人や苦労知らずの人と話すと自分が傷つくので避けていたことを思い出し、そういう人に自分も寄せれば、重い相談は集まらないはずだと考えた。

そうして私は感情へのダイレクトな刺激が少なく平穏な日々を送っていた。その後会う人には恵まれていたし、その作戦は割と成功していた。

でもずっと何か喉がつっかえてる感覚があった。それがあの夜繋がった。

私は、人を傷つけて、あえて遠ざけてまで自分の心を保とうとしていたんだ、という当たり前のことに急に気がついたのだ。

私はこの2年自分を保つため、自分は周りの人への接し方を変えて生きてきた。自分なりの反省を活かし、変えてきた。

でもそれはリハビリ期間であって、ずっとこのままではいけないのかもしれない。

思えば、中学生の頃から私は相談役になることが多かった。うつを経験し、自分は一回人格がリッセットされたぐらい思っていたが、そうではないのかもしれない。

私は失敗を繰り返したくはない。でもそのために他の人を傷つける方法はもうとりたくない。すぐ共感してしまう癖に蓋をすることなく上手く付き合いたい。

私は、彼女と分け合ったティラミスの最後の一口を食べながらもう一段階何かを乗り越える時がきたと悟った。

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