見出し画像

生きるという無常~武田泰淳『ひかりごけ』 感想~

いずれにせよ私は、「文明人」諸氏から、珍奇であり残忍であると判定されるにちがいない、ペキン事件、この読者にはあまり歓迎されそうにない題材に、何とかして文学的表現を与えなければなりません。

『ひかりごけ』(新潮社) 209頁

無常は詠嘆に浸ったしめやかな情緒のみを表すものではない。『ひかりごけ』における無常は、血生臭くも生きようと踠く恥ずかしい人間の矮小さと、それらを沈黙して見つめたまま、ただ持続していく世界とが混合した無常である。

この作品は、羅臼町で実際に起きた人喰事件を題材とする。流氷と吹雪によって難破した船の船員は、上陸して助けを待つなかで飢えに苦しむ。やがて一人、また一人と死んでいく極限状態において、船員達は亡き仲間の肉を喰らうようになる。最後に生き残った船長は、一命を取り留めたものの、人喰いの罪によって裁かれることとなる。


残忍な事件を描いたこの作品は、その題材の衝撃よりも寧ろ、作品の形式において衝撃的だ。前半は羅臼町に訪れた「私」による小説的な物語の展開をしているのであるが、後半にかけて人喰いを題材にした小説についての分析や、この事件を如何にして語るかというメタ的な視点が導入される。そして、そのまま戯曲へと代わり、細かな演出まで含まれた物語が始まる。一般的な小説という形式に拘れば、この短編作品はほんの数十ページで破綻していると言える。


けれども、この小説の構造は互いに縺れ合って一つの作品世界を作り上げている。前半の小説部分での「です·ます」調が、後半の船長の口調と同様であったりする。私小説の実的な部分の虚飾性と、虚飾性によって迫り来る現実が同じ空間のなかで生じているような感覚へと陥れられるのである。


また、この物語は、生きとし生けるものとしての無常感を全体に保持している。

船長は、飢えに苦しみながらも仲間を喰うことを拒もうとする船員から恐怖心を抱かれ、殺害されそうにもなる。それでも、船長は人の肉を喰らい、生還を果たした。船長の生命は、倫理のために死んだ勇敢な船員とは異なり、恥を晒してでも生きようとする生命である。

しかし、その矮小さ故に輝きを放っている様に思えはしないか。全てを悠然と包み込むだけの寛容な生命や、猛然と進む勇者の生命だけが輝いているのではない。生き恥を晒しても尚、運動する生命の蠢きは、この世界の空間を一杯に満たしているのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?