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問い続けること~森達也『福田村事件』 感想~

 包み隠されることのない剥き出しのままの獣性は、根も葉もない噂やちょっとした妬みの感情などの僅かなきっかけで、波紋のように広がってやがて大きな波となって発露されるようになる。
 獣性は群を成すことで過激さを増しながら暴力として止めどなく溢れ出し、言葉は繊細さを失っていく。反省を始めるのは、全てが破壊されてしまった後でしかない。
 こうして多くの罪を人類が重ねてきたことは変えようのない事実として厳然としている。日本だけではなく、他のアジア諸国も、ヨーロッパも、アメリカも、アフリカも。

 しかし、その罪を忘却し、無かったことにしてしまうような"強さ"が今も尚、剥き出しに発露されているのではないか。
 歴史修正主義の言説が、各地で蔓延している。福田村事件のようなことは無かったと言い張りたい人達が一定数いる。そうした言説の背後には、何の根拠もない憎悪や怒り、不安の感情だけがあり、複雑な言説は全てが単純さの中に丸め込まれてしまう。
 また、一見すると"弱さ"と思えるような振る舞いをする狡猾な"強さ"もある。私達は被害者なのであって、そうした暴力を発露してしまったのは仕方のないことだったのだと。果たして、本当に殺害や強制的排除という単純な暴力しかなかったのか?という問いかけは彼等には決して生まれてこない。

 罪を重ねても尚、人間は産まれてしまった以上、生きていくしかない。また、無意識のうちで暴力性を発揮してしまうことも逃れようがない。そうした罪の後味を反芻し、暴力性を内包しながらも常にその扱い方について問い続けていくしかない。
 いつまでも罪に囚われて生きていくのは苦しいことであるし、それは"弱い"生き方だと後ろ指を指されるだろう。けれども、その"弱さ"こそ責任を果たそうという覚悟の現れではないのだろうか。


 本作では、あらゆる"弱さ"の視点から事件を垣間見ることができる。在日朝鮮人、被差別民、子供、女性という既に多くの人達が知っている"弱さ"だけではない。大衆や権力の発露する暴力に、数と力で敵わなかった多くのインテリ達。特に彼等は社会的な"強さ"を持っているとされながら、集団の暴力の前では無力な"弱さ"の中に投げ込まれる。また同時に、"弱さ"の中の"強さ"も描かれている。自らの性愛の謳歌を選択する女性、在日朝鮮人を揶揄する被差別民などである。

 少々、分かりやすい台詞回しなどがあったにせよ、この映画が問いかけたいことの深刻さについて余りにも多くの観客が無関心になっていることを考えれば、仕方のないことなのかもしれない。メタファーだけでは、本作が意図していた狙いが挫折してしまう可能性がある。

 今回、福田村事件という出来事が、この映画を通じて初めて知ったことに悔やみながらも、今こうして知ることができたこと。そして、それ以上に、劇映画としてこの事件を取り上げたことが、この事件を根深い哲学的な問いかけとして多くの人間へ普及する機会をくれたこと。そうしたことを含めて心から製作陣の方々に感謝したい。

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