アートに関する覚書9. 作品の意図

一切、行間を読ませることのないような作品について思うところがある。

この菅原伸也さんがレビューしている展覧会には、私は足を運んでいないのだけれど、行間を読ませようと必死になっている作品は他の多くの展覧会でも散見されている。

美術館·博物館の企画展示でも音声ガイドが増えたし、キャプションが充実して作品の"意図"や"背景"といったものが分かりやすくはなった。障害を持つ方々でも展示を楽しめるという心遣いは良いと思う一方で、説明しすぎでは?とも感じる。


作品の"背景"や"意図"を読み取ることで、鑑賞者の解像度が上がれば、興味をもって作品に対峙できることは一面としてある。けれども、これでもかと説明を話されるとうんざりしてくる。

作家は何のために"言葉以外"で表現をしているのだろうか。そんなに説明がしたいのであれば、わざわざ展示をやるのではなくて、講演会や演説、書籍、論文の類いで充分だ。


それに、言葉でなくとも、テクストそれ自体、作品それ自体にも記号が散りばめられているではないか。かつて美術において堂々たる地位を占めていた宗教画や歴史画といったジャンルは、非言語であっても豊富な記号を織り込んでいた。

そして、作品は"意図"という飾りを取り除いても、本来多弁なのである。それが白一色で、題名が無かったとしても。鑑賞者が読み取れるのであれば、白一色の中に七色の色彩を見ることもできる。要は鑑賞者の想像力に委ねられているということだ。言葉による説明は、ちょっとした踏み台や補助輪のようなものであって、それ以上のものでない。


"意図"を説明しようとすればする程に、全く伝わらないということを作者は経験したことがないだろうか。懸命に作品で"意図"を伝えようとしても、良くわからないと一蹴されることは当然だ。それほどに理解できない圧倒的な他者に向き合えるのが芸術作品であるし、その場所としての展覧会なのではないか。

寧ろ、この意図を説明しようとすればする程に、伝わらないチグハグさこそ、作品にすれば面白いだろうに。皆、本当に真面目なのであるなと感じている。


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