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音に耳をすませる~マイク·ミルズ 『カモン カモン』 感想~

"他者理解"という言葉で簡単に語れるほど、人間は単純ではない。

"子ども"は生まれた時から、ずっと"大人"であって、"大人"もずっと"子ども"なままだ。


ジャーナリストとして"子ども"の声をきいてきたジョニー(ホアキン・フェニックス)が、9歳の甥·ジェシー(ウディ·ノーマン)を数日間面倒みる物語。男性と子どもの友情を描く物語は、かつてダスティン・ホフマンが主演していた『クレイマー、クレイマー』などを思い起こさせる。

けれども本作では、主人公·ジョニーを取り巻く環境と、その中にある"子ども"の描かれ方に違いがあると感じた。

ジョニーを取り巻く家庭環境には深刻さがある。嘗て認知症の母の介護をめぐって衝突を繰り返してきた兄妹。疎遠になっていた兄妹は、精神的な病を患った妹の旦那の世話をするため、甥のジェシーを預けることで再び関係が始まることになる。どうしようもなく家族という紐帯が二人を煩わせ続ける。『クレイマー、クレイマー』の時代とは一味違い、現代に生きる人間の状況が鮮明に描かれている。


ジョニーは甥の世話を通じて、どうしようもなく理解できない、剥き出しの"他者"と接している。

ジョニーは、独り身で熱心に仕事に注力してきた。人との深い関わりを避けているようにも見える。一方、仕事では、あらゆる"子ども"の声をインタビューして回っているのだ。

当初は、"子ども"を面倒見る"大人"としてジョニーは接しているように見える。敢えてふざけてみたり、本の読み聞かせをしたり、録音機材を与えたり。"理解のある良い大人"として振る舞っている。そんなジョニーに対して、甥も気を遣って"聞き分けの良い子ども"として振る舞っている。


けれども、"生活"として他者と接触し始めると、そこには互いに混乱が生じ始める。

感情を容易に言葉として表すことができる訳ではない。拗ねて一人でどこかへ消えたり、親のいない悲しさの中で平気そうに遊んでいたりもする。ジョニーが心を開いてくれたと思っても、次の日にはまた拗ねられていたりする。

作品を通じて、他者を十全に理解することの不可能性が突きつけられている。

母でも、妹でも、夫でも、子どもでも。全てが一人一人の複雑な世界を生きている。"子育て"という言葉の裏には、そうした剥き出しの命の営みがあることを忘れてはいけない。そのなかで人は簡単に心を患いもするし、仲違いをしたりもするのだから。

人は一人一人が何らかの音を発して、自分の存在や居場所を知らせている。

どれだけ辛い現実が現前としてあっても、その音に耳をすませられるように向き合っていく。そして、お互いに感情を剥き出しにして傷つけ合いながら、また"生活"を続けていくだけの弾性力を培っていく。"大人"、"子ども"、"恋人"といったカテゴライズの先をみていけるようになりたい。


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