見出し画像

毒 ☆94

かつて私はディズニーが大好きで、中学時代『ファンタジア』が上映されるのを知り、

自分の住む市では上映されなかったので、どうしても見たくて、わざわざ電車賃払って、都会の街まで見に行ったりもしていたくらいだ。(2万円くらい使ったと思う)

けれど、最近のディズニーはポリコレ(「ポリティカル・コレクトネス」の略で、人種、性別、国籍、宗教、年齢、障がいなどを理由とした「差別的な表現を正す」という考え方)のせいなのか、あんまり面白いとは感じなくなっている。

多様性に気を使うあまり、表現がマイルドになり過ぎて、却って毒にも薬にもならないものに成り下がっているように見える。

いや、ハッキリ言おう、詰まらないのだ。

目下、ソーシャルワーカー目指して、猛勉強中だから、ポリコレとSDGsの関係とか分かるのだが、

それでも私は、表現としての「毒」を取り除いてしまうやり方には反対だ。「毒」があるからこそ笑えるのだ、面白いのだ、ドキドキするのだ、そしてそれを乗り越えた時に、よりカタルシスを感じられるのだ。

その表現に傷付いて、泣いてる人がいるって?

でも、現実世界はもっと厳しいのだから、アニメやマンガの表現で慣れておいた方が良いと思う。

世界史だって、苛酷じゃないかと思う。中国や欧州の歴史を学べば、残忍で非情で愚かしい事が沢山起こったのだ。

それは、歪曲しないでなるべくありのまま伝える方が良いだろう?ありのままの姿を知る事で、人間とは何なのかが、やっと知れるのだと思う。

マイルドにして、どうするのだ?

私は落語ファンである。

落語の、魅力ある古典作品は、江戸時代(或いはもっと古く)から作られ、明治、大正、昭和初期に磨かれたものが多いため、差別語、侮蔑語が、生々しくそのまま使われている。

けれども、落語もテレビやラジオで放送される場合は、そのような表現を変えたり、和らげたりしてしまうようだ。

そうすると、やはり古典としての味わいが損なわれてしまう。本当の、当時の人の姿は見えて来ない。

だから結局、古い、名人の残した名演を聞いた方が活き活きとしている。という現象が起こってしまう。

今もあらゆる差別は厳然としてなくならないが、昔はもっと酷い差別が沢山あったのである。

その事を受け止めて、悲しみを味わう事も大切ではなかろうか?

『ゴールデンカムイ』などはポリコレにしたらどうなってしまうのだろう?「毒」を味わうことの出来る贅沢を、私たち日本人は手放してはならない。

欧米人達も、中国人達も、その贅沢を羨ましがっている事だろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?