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墓見 ☆109

落語には「安兵衛狐」という噺があって、二軒長屋に住んでいる安兵衛という人は少々偏屈で、亀井戸に「萩見に行きましょう」と誘われたのに、「俺はこれから墓見に行くから行かねえ」と断ってしまう。

本当は萩見に行こうと酒肴を用意していたのに先を越されて誘われたので、つい咄嗟に「墓見に行く」なんて口から出まかせが出てしまったのだが、こうなりゃしゃーないからと本当に墓見に出掛けてしまうのである。

私もよく墓見をしたものだ。(安兵衛さんがその後どうなったかは落語をYouTubeで聴いてみよう)


明日からいよいよ7月だ。シーズンだから有名人の墓参りするのも乙なものである。(?)

高野山に行くと本当に色んな有名人の墓があってとても楽しいのだが、都内も有名人の墓が散在していて十分に楽しめる。

雑司ヶ谷に行けば漱石や夢二、荷風、鏡花の墓があるし(他にも沢山の有名人の墓があります)、ファンとして礼節をもって墓参りするなら問題はなかろう。


前の記事では三遊亭圓生のファンだと書いたが、圓生という人は落語家の中でも学者肌の人で、古い風習や言葉について、いちいち解説して教えてくれるのである。

これは私にとっては嬉し有り難しなのだが、落語の本筋から言えば少々外れているのかも知れない。滅んでしまった言葉や唄の意味の解説なんて、多くの客はどうでも良いのだ。

だから、現落語家でも圓生の落語を「教科書」と揶揄(誉めてはいない)する人もいる。それはそれで実は正しくて、落語はライブで楽しむものだし、ライブ感を大事にするなら古い言葉なんか捨てて、分かり易い表現や新しい表現にして、どんどん笑いを取るのがプロの仕事なのであるから、私もそれを否定しない。

なので圓生の落語を聴いても少しも面白くないと言う落語家も増えているかも知れない。

けれど、嵌る人は嵌る。落語というものは、いい加減な噺を並べている訳ではなく、出てくる土地の位置関係、当時の風景などは、実は正確に描写されていて間違えがないのである。

圓生はその事を古地図を使って解説した著書も出しているし、私はそれを頼りにして都内を随分歩いたりもした。

昭和の名人と言われた志ん生や文楽の落語も、いい加減な描写はない、ただ、彼等はそれを解説する術を持っていなかっただけである。

言うまでもなく、圓生こそ話芸の達人なのであって、彼の語り口で古い言葉や明治時代の風景を聴けるこの楽しさったらないのである。難しくても、何回か聴けば、圓生の上手さが分かると思うのだが。

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