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ヘヤー・インディアン ☆107

夜の公園で、1人のしょぼくれたおっちゃんが、ブランコに乗って、
訥々と、か細い声で歌っていた。

いのち短し 恋せよをとめ
朱き唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の命はないものを、…
(「ゴンドラの唄」歌詞・吉井勇)


むかし、もう30年以上も前に名画座で観た黒澤明『生きる』である。

たった1度しか観てないけれど、忘れられない記憶として残っている。
とくに、ブランコのシーンはあまりにも有名。

映画はストーリーではない、シーンなのだそうな。
なるほどと、私も思う。

生きる (Ikiru) 黒澤明 テーマ曲 -ゴンドラの唄-


この主人公は市役所勤めの役人なんだが、忙しそうにしているだけで、実は何もしていない。何事もなく定年退職できれば良いのに、なんて日々を過ごしていたのに、

身体の不調を感じて医者に診てもらい、「軽い胃潰瘍だ」と診断されるが、本当は癌であると悟り、自暴自棄にもなるが、残り少ない人生を懸命に生きようと決心するのである。


ハイデガー

>自らの「死」と向き合うことで、人は本当に生きられる。

と言っている。人は誰でも必ず死を迎える存在なのに、多くの人々はその事を忘れて生きようとして、詰まらないもの(周囲に同調したりして)ばかり追いかけて生涯を終えてしまう。

『生きる』の主人公は正に「死」を意識することで「生きる」ことに目覚められたのだ。ただ息をしているだけで「生きてる」と言えるのかい?と言いたいのであろう。


今日、ミルトン・エリクソンに関する本を読んでいたら、ヘヤー・インディアンの事が書かれていた。

ヘヤー・インディアンの事を私は良く知らないが、カナダの北極圏近くに住む人達で、エスキモーとは違うらしい。

この人達は何が珍しいかといって、「死を言祝ぐ」文化を持っているらしい。文化人類学者の原ひろ子によれば、なんでも「死ぬこと」を重視し、それも優雅に、言い換えるなら生にしがみつく醜い態度を呈することなく、引き潮のように死にゆくことを言祝ぐ。そうである。

彼らは体調も良く、虚弱でもないのに、ちょっとした病気や怪我ですぐ死んでしまうのだそうだ。欧米人や、エスキモーなら絶対に回復するていどの症状でも、「自分は死ぬ」と言って潔く本当にあの世に行ってしまうのだと言う。

つまり、「生」に対しての執着が少なく、何時でもなにか死ねる良いきっかけを待っている文化なのである。大したことない怪我や病気でも死ねるのは暗示の一種なのだろうか??

彼らを見たら、ハイデガーは何と思ったであろうか?ちょっと訊いてみたい。

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