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【短編小説】わたしたちのやりたかったこと①

 みんながみんな、複数人でかたまり「楽しそう」な様子で話しこんでいる。
「アヤカと小五から四年連続一緒なんだけど」
「担任またカモセンとかマジ最悪」
 どう考えても目の前の人間に伝えるには大きすぎる声を張り上げている。つまりまわりに聞かせている。それにはきっと、自分は決して孤立していないとアピールする意味もあるのだろう。そして話しつつも、ちらりちらりとまわりの様子をうかがっている。
 中学二年生最初の日。今までのクラスメイトがシャッフルされて、新しいクラスメイトが最初に集うタイミングのこと。一見、陽気な喧噪に包まれている教室には、互いを探りあうような、気の抜けない張り詰めた空気が満ちている。
 私は席についてそんな教室の様子を眺めていた。教卓の前で、身振り手振りで話している女の子たち。そのうち一つしばりの子は体育祭の時、いつまでも整列しない男の子を怒鳴りつけていた。廊下側の壁際で、ふざけて取っ組み合いをしている男の子たち。そのうち坊主頭の子はすれ違うといつも湿布の匂いがツンとする。窓際の席で頬杖をつき、外を眺めている髪の長い女の子。こちらからはどんな顔をしているのかわからない。今、ぽつりと席についているのはその子と私だけだった。
 横七メートル縦九メートルくらいの空間に、三十人ほどの同い年の人間がつめこまれ、それぞれが一斉に不快な音を立てている。そしてそれぞれがシャンプーや整髪料、汗や湿布の匂いを立ち上らせている。私は思わず吐きそうになり、右手で口をふさいで目を閉じる。
「大丈夫」
 心のなかで、私は自分に言い聞かせるようにしてそう言った。私は私のやり方を貫けばそれでいい。小学校の頃から、それでずっとなんとかやり過ごしてきた。どんな子たちと一緒になっても、今までと同じで問題なく対応できるはず。
 私はひざの上のこぶしを握りしめ、背筋を伸ばして目を開けた。


 カモセンは月並みでつまらない新学期の抱負を話し終えると、「イチハラさん」と一人の生徒の名を呼んだ。窓際の方から「はい」という女の子の小さな声がした。
「えー、本日からみなさんに新しい仲間が加わります。イチハラさん、前にきて」
 気怠そうにゆらりと立ち上がったのは、頬杖をつき、ずっと外を見ていたあの女子だった。イチハラさんの髪はとても長くて少し明るい色だった。スカートの丈は短めだった。カモセンの横にたどりつくとこちら側に振り返り、右側の髪をかき上げた。それでも顔の三分の一くらいは左側の髪で隠れていた。
「イチハラユリです。よろしくおねがいしまーす」
 イチハラさんはろくに顔も上げずにそう言うと、カモセンの合図を待たずに教壇を降り、すたすたと自分の席へと戻っていった。
「……うん。まあそいうことで。みんな仲良くするように」
 カモセンはきまりが悪そうにそう言った。ほかのみんなはぽかんとその様子を眺めていた。イチハラさんは自分の席に座るとまた頬杖をつき、窓のそとに目をやった。


 昇降口に行くと、イチハラさんが目の前の下駄箱を見つめて立ち尽くしていた。帰りの会のあとに私は一度玄関に来て、忘れ物に気づいてそれを教室に取りに行っていた。その間に他の生徒たちはすでに帰るか部活に行っており、玄関には私とイチハラさんしかいなかった。
 イチハラさんは空の下駄箱を睨みつけ、下唇をかみしめていた。私はイチハラさんに気づかないふりをして通り過ぎ、自分の下駄箱からスニーカーを出して上履きと履き替えて、扉まで進んだところでもう一度イチハラさんの方を見た。
 イチハラさんは相変わらず空の下駄箱を見つめていた。
 迷った末に、私はイチハラさんのところまで戻り声をかけることにした。「どうしたの?」
「ない」
 イチハラさんは下駄箱を睨んだまま言った。
「くつが?」
 イチハラさんは肯き「許せない」とつぶやいた。その声は震えていた。
「イチハラさん」
 私は覚えたての彼女の名を呼んだ。
「ここ、一年生の下駄箱だよ」
 イチハラさんは「え」と言って私を見た。それからキョロキョロと周りを見まわした。
「私たちは、もう一列隣だよ」
 イチハラさんはみるみる顔を赤くした。そしてくるりと私に背を向け上を見た。
「……やばい。超はずい」
「あるある。よくあることだよ」
 私はイチハラさん励まし彼女を連れて二年生の下駄箱に移動した。イチハラさんのニューバランスは、あるべきところにきちんとおさめられていた。
 私は「じゃあ」と立ち去ろうとした。
「ねえ」
 イチハラさんが後ろから声をかけてきた。私は振り返って彼女の方を見た。
「家、どこら辺?」
「えっと、駅を超えて少し行ったところだけど……」
「おんなじ方向じゃん。一緒に帰ろうよ」
 喜びとも恐怖ともつかない、何とも言えない感覚に私は襲われた。学校の帰りに誰かと帰るなど、小学校の中学年以来だったのだ。けれど私は気がついたら何度も肯いていた。
「帰ろう。帰ろう」


 私とイチハラさんは横一列になり歩いていた。彼女は転校生なのだから、どう考えても私からいろいろ話しかけるべきだった。けれどどう話しかけたらよいのか私にはそれがわからない。事務的なもの以外、いわゆる他愛のないおしゃべりの経験が、私には絶望的に足りていなかった。
 私たちは互いに黙ったまま歩きつづけていた。誘われて素直に喜べなかったのは、何となくこの状況を予期していたからだった。せっかく声をかけてくれたのに、このままだと彼女を気まずい気持ちにしてしまう。今日の天気のことでもいい。いっそのこと目に入った中古車販売店の看板を読み上げるだけでもいい。私はとにかく沈黙を終わらせようとして、何度ものどから声を押し出そうとした。
「そういえば」と、口を開いたのはイチハラさんだった。
「なんて名前なの?」
 私は慌てて「ごめんごめん」と言った。
「イズモマイ」
「マイちゃんね。私ユリ」
「うん、ちゃんと覚えてる。朝自己紹介してくれたから」
 イチハラさんが最初の言葉を発してくれたのをきっかけに、私たちはそれ以降、何とか会話らしい会話を交わすことができた。私は何度も言葉に詰まりかけたが、その度イチハラさんは何かしらの質問をして会話が途切れないようにしてくれた。気を使っていたつもりが私は逆に気をつかわれていた。イチハラさんはここまでのわずかなやりとりで、私の人見知りを見抜いていたようだった。最初は少し怖い人かと思ったけれど、たぶん、彼女はいい人だった。
 交通量の多い車道脇の細い歩道をしばらく進み、私たちは駅のロータリーに到着した。
「マイちゃん、もう家近い?」
「うん。駅の反対側に抜けてすぐのとこ。イチハラさんは?」
「私はこのまままっすぐなんだよね」
 久しぶりに誰かと帰れて嬉しい思いをしたかわり、私はへとへとに疲れていた。イチハラさんの質問にうまくこたえられなかったり、うっかり変なことを口走って彼女の機嫌を損ねたりしないかと、道中、私はずっと緊張状態にあったのだ。それももうじき終わると思うと、私は肩のちからが抜けた。
「このあとなんかある?」
 イチハラさんが言った。
「ないよ」と、私は正直に答えた。
「ちょっとお茶してこうよ」
 イチハラさんは駅ビルの二階にあるファミレスを指した。
 私は戸惑った。下校時にそういうお店に立ち寄るのは一応校則で禁止されている。けれどそれをそのまま伝えるのは最善ではない。彼女は髪色といいスカートの長さといい、すでにちょっとルールを逸脱している。たぶん彼女に向かって校則を持ち出したところであまり効果はないし、それどころか「つまらないやつだ」と失望されるリスクがある。
「今日、お財布持ってない」と私は言った。本当だった。
「大丈夫」とイチハラさんは即答し、カバンからピンクの財布を取り出し中を開いて私に見せた。一万円札が入っていた。
「行こ」
 イチハラさんは駅ビルのエントランスの方へと進んで行った。


 私たちは窓際のソファー席に向かいあって腰掛けた。まだお昼には早い時間だけれど、店内はそこそこ混んでいた。私は店に入る前にあらかじめ制服の上着を脱いでいた。どこの中学かバレないように、ささやかな対策のつもりだったのだ。イチハラさんは転校初日だからかまだ前の学校の制服だったので、私よりも身元が割れるリスクは低そうだった。
 私はドリンクバーにした。おごられる身分で食べ物なんか頼めるはずがない。イチハラさんも、さらりとメニューに目を通してから結局ドリンクバーだけにした。
 私たちはかわりばんこにドリンクコーナーにいき、私はカルピス、イチハラさんはコーラを入れてきた。
 イチハラさんはコーラにストロ―をさし、右側の髪をかき上げてからそれに吸いついた。長い髪を下ろしているのは何かにつけ邪魔そうだった。けれどそれでもそうしているからには、きっとそのスタイルを気に入っているからに違いない。実際、彼女は長い髪をそのまま下ろしているのがよく似合う。彼女は恐らく一日に何十回、下手したら何百回と髪をかき上げているはずだった。だからその仕草はもはやほとんど無意識じゃないかと思われるくらい自然に行われていて、とても中学生とは思えないほど板についていた。 
 私はカルピスを飲みながらしげしげ彼女の顔を観察した。彼女は二重でぷっくり涙袋がふくらんでいた。鼻は小さいだんご鼻だった。唇は薄くておちょぼ口で、顔立ちはむしろ童顔だった。その仕草とかしゃべり方、制服を着崩すところが彼女を大人っぽく見せていた。
「お金もちなんだね」と私はイチハラさんに言った。
「バイトしてるからね」とイチハラさんは事もなげに言った。
「バイト?」
 思わず大きな声が出てしまい、私は周りを見まわした。幸い、誰も私たちのことなど気にかけていなかった。
「うんバイト」
「でも中学生って、バイト基本的にはダメだよね?」
 おそるおそる私は訊いた。イチハラさんは「うん」と頷いた。
「だから年齢ごまかしてるの」
 私は絶句した。それはもはや校則違反どころの騒ぎではない。彼女は、さらりととんでもないことを言っている。
 イチハラさんはカバンからスマホを取り出して操作して、私の前に掲げて見せた。スマホの画面には、猫耳のカチューシャをつけ、こってりつけまつげをして、グロスでテカテカに唇の光る女の子がいた。服装は、うちの学校でも今着ている彼女の制服でもない、ライトブルーの大きなリボンのセーラー服だった。
「これイチハラさん?」
「うんわたし」
「……かわいい」
 そう答える以外に選択肢はないので私はそう言った。まるっきり嘘ではない。けれどなんだか人工的で、少し下品な印象がした。今目の前にいる彼女の方が、私にとってはずっと魅力的だった。
 そんな私の真意など知る由もなく、イチハラさんは「ほんと?」と嬉しそうな顔をした。
「これバイトしてるときの写真。私ね、ガールズバーで働いてるの」
 私は一瞬思考が停止した。そして「がーるずばー」とロボットのように口にした。
「ガールズバーって、お酒だしてお客さんとお話する店だよね?」
「うん」
「……えっと、お客さんにはバレないの?イチハラさんが中学生だって」「今のところバレてない」
 私は「ふぇー」と脱力してどさりとソファーにもたれかかった。
 イチハラさんは「ふふふ」と笑っていた。
 彼女は笑うととてもかわいらしかった。普段ツンとしているぶん、そこからのギャップでなおさらそう感じられるのだろう。
 私はイチハラさんがそのかわいらしい笑顔で猫耳のカチューシャをつけ、こってりつけまつげをしてグロスでテカテカに唇を光らせて、大人のお客さんの相手をしているところを思い浮かべてみた。けれど目の前のイチハラさんと、ガールズバーのイチハラさんとはどうしても私の中では重ならない。  
 気がつくとイチハラさんは頬杖をつき、しげしげと私のことを見つめていた。
「マイちゃんって、かわいいね」


 そのあともイチハラさんはいろいろと自分の話をしてくれた。前の学校からは、担任と付き合っていたのがバレてしまい転校するはめになったこと。最近大学生の新しい彼氏ができたこと。どれも私にとってはガールズバーと同じかそれ以上の衝撃だった。今まで、そんな話は漫画や小説でしか聞いたことがない。まわりにそんなすごい体験をしている人などいなかったのだ。私がびっくりしてソファーから腰を浮かせたり、カルピスを吹きそうになる度イチハラさんは手を叩いて大笑いした。彼女は明らかに私の反応を楽しんでいた。
 イチハラさんが三杯目のコーラを運んできたところでブルルと彼女のスマホが鳴動し、彼女はそれを確認して「いけない、そろそろ行かなくちゃ」と言った。
「ごめんね、こっちから誘ったのに」
「全然。気にしないで」
 私たちはファミレスを出て、それから駅ビルを出てロータリーに来た。ロータリーには白いSUVタイプの車がとまっていた。車のことはよく知らないけれど、よく見かけるエンブレムがついていた。
「じゃあね」
「じゃあね。ごちそうさま」
 イチハラさんは白い車の方に駆けていき、助手席の扉を開いて中に乗りこんだ。車は音もなく滑らかに発進し、ロータリーを抜けたら他の車に紛れてすぐ消えた。


 そんなこんなで次の日から私はイチハラさんから目が離せなくなった。彼女は授業中いつも頬杖をつき、窓の外を眺めていた。教科書を開いてすらいなかった。時おりガクッとなるので寝ていたりもするようだった。もちろん、先生にはそんな態度を注意されるのだが、彼女は取り急ぎ姿勢を正して授業をちゃんと受けるふりをして、数分後にはまたもとの姿勢で外を見た。
 イチハラさんは給食の時間も誰とも話さず食べていた。掃除もみんなからは少し離れて一人でやっていた。休憩時間は席を外して必ずトイレに行っていた。一度彼女をつけてみたので間違いない。右手をブレザーのポケットにいれていたので、たぶん、個室でスマホをいじっているのだろう。そして放課後もいつも一人で下校した。
 そんな彼女の様子に変化が訪れたのは、始業式から一週間くらい経った頃だった。給食の時間、ひそひそと話すイチハラさんに、両隣と正面の女の子が身を乗り出して耳を傾けていた。(うちの学校は、給食の時に六つの机をつけてグループにし、三人と三人で向かい合わせに座るのだ)女の子たちは時おり「うそ」とか「マジで」という驚きの声をあげていた。イチハラさんは得意げな様子で微笑んでいた。掃除や休憩時間にも、彼女は誰かしらとひそひそ話すようになっていた。
 イチハラさん本人がいないところでも、みんなは彼女の噂話をした。下駄箱やトイレ、廊下や階段の踊り場など至るところで私はイチハラさんの話題を耳にした。内容は転校してきた理由やガールズバーのことなどで、私がファミレスで本人から聞いたものだった。
 不思議なことに、イチハラさんのことを批判的に語る人はいなかった。みんなは彼女がいけないことをしているというよりは、「中学生なのにすごい」という武勇伝的な捉え方をしているようだった。
 イチハラさんは、急速にみんなの敬意を集めていた。
 もう一週間くらい経つと、イチハラさんのまわりには人だかりができるようになっていた。学校の廊下でも帰り道でも、彼女は常に五、六人の女の子を引き連れていた。その中の何人かはイチハラさんみたいにスカートの丈を短くし、ブラウスを第二ボタンまで開けていた。
 イチハラさんはあれよあれよという間に自分の軍団を形成し、始業式から二週間程でクラスの覇権を手に入れた。
 私とイチハラさんの関係はというと、ファミレスの日からあまり進んではいなかった。あの日以来、彼女とちゃんと話す機会がなかったのだ。イチハラさんは常に複数人を引き連れている。イチハラさん以外ほとんど話したことのない人たちの輪の中に、勇気を持って入り込んでいくことなど無理だった。だから私が彼女と口をきくのは朝の下駄箱とかトイレの洗面台前とかそういうほんのすれ違いの際だけだった。イチハラさんは後から膝かっくんしてきたり、私の前髪を撫でてきたりした。そしてそのあとにはきまっていたずらっぽく微笑んだ。そんなふうに私に絡んでくるのはイチハラさんだけだった。とてもささいなことだが私はその日は一日中、気分がうきうきとした。イチハラさんの「第一発見者」としては、彼女があっという間に手の届かないところまで行ってしまって少し寂しい気もしたけれど、そんなふうに気をかけてもらえるだけでも私は十分満足だった。


 ある日の学校からの帰り道、私は駅前のロータリーを歩いていた。駅ビルの二階には以前イチハラさんと入ったファミレスがある。何とはなしにそちらを見ると、窓際の席にイチハラさんの姿が見えた。イチハラさんの向いには同じクラスの女の子が二人腰かけていた。イチハラさんといつも一緒にいる子たちだった。先に私に気づいたのは向いの女の子たちだった。彼女たちがイチハラさんに何かを言うと、イチハラさんは窓に顔を近づけ、目を糸のように細めて私のほうを見た。私が遠慮がちに手を振ると、イチハラさんはやっと私を認識して元気良く手を振り返してきた。そしてそのまま「おいでおいで」と大きく手招きをした。私は向いに座る女の子たちを見た。彼女たちは少し困っているようだった。誘ってもらえるのは嬉しいけれど、私にはあちら側に行くのは無理だった。ほとんど話したことのない子が二人もいると、たぶん私は緊張して一言も話せない。私は手を合わせて「ごめん」のポーズをし、それから腕時計をしている左手をかかげて「予定がある」ことを伝えようとした。もちろん本当は予定なんて何もない。
 イチハラさんは再び目を細めて「え?」という顔をした。私はもう一度同じ動作を繰り返した。イチハラさんは「うーん」と首をかしげてから、はっと何かを思いついた顔をした。イチハラさんはスマホを取り出し操作した。たぶん、私に連絡しようとしたのだろう。けれどそれは無駄なことだった。彼女とはまだ連絡先を交換していない。イチハラさんもすぐにそれを思い出したようだった。イチハラさんは向いの二人に何やら問いかけた。二人とも首を横に振っていた。
 そのままではらちが明かないので、私は「バイバイ」と手を振り、歩きはじめて半ば強引にそのやり取りを終わらせた。イチハラさんの向いの二人はお愛想程度に手をひらひらとさせ、イチハラさんもその二人を見て私に手を振った。


 紫陽花が色褪せ制服がブレザーから夏服のポロシャツになった頃、イチハラさんのまわりには女子だけではなく男子の姿も見受けられるようになっていた。まあ、イチハラさんはただでさえかわいいところにツンデレなので、モテるのはあらかじめ予想できたことだった。
 イチハラさんは昼休みの廊下の片隅だとか、通学路にある公園のブランコとかで、いつも違う男子と楽しそうな様子で話し込んでいた。男子は三、四人いる時もあれば、一人だけの時もあった。イチハラさん側も女子複数人の時もあれば、イチハラさんだけの時もあった。
 そんな感じでイチハラさんの天下はますます揺るぎないものに思われたのだけれど、取り巻きのひそひそ話からは少し気になる兆候も現れていた。「ユリって大学生の彼氏いるんだよね?他の男子とあんなに仲良くしていいのかな?」
 悪口というほどのものではない。けれどつい最近まで誰もそんな疑問すら口にしなかった。それくらい、イチハラさんはみんなから妄信的な支持を受けていた。ところが今はそれができる雰囲気になっている。今まではイチハラさんを批判したところで決して賛意が得られなかったのが、相手から同調してもらえるようになったのだ。つまりそれはイチハラさんに対して何かしらの不満を持つ人間が、それだけ増えてきていることをあらわしていた。
 イチハラさんは今なおその支持を広げていた。けれど支持者一人一人の信仰心は、以前よりも確実に弱まっていた。
 イチハラさんは、神ではなくなりつつあった。


 ある日の昼休みのこと、図書室へ行こうと廊下に出ると、隣のクラスの教室前のところでイチハラさんが一人で立っていた。彼女は窓に背をもたせてぼんやり教室の中を見つめていた。
 私は勇気を振り絞ってイチハラさんに話しかけることにした。彼女が一人でいることなど滅多にない。それはまたとないチャンスだったのだ。
 イチハラさんに近づき、まさに声をかけようと息を吸い込んだ時、教室の中から背の高い男子が現れた。イチハラさんは軽く手を振り微笑んだ。二人は示し合わせたように廊下側に背を向け逆ハの字になった。
 私はそのまま彼女たちの横をやり過ごした。その際ちらりと横目で確認すると、彼女たちは互いのスマホを見せ合い、ひそひそと親密な様子で話し込んでいた。


 夏休みが終わるとイチハラさんのまわりに集まる生徒は明らかに減っていた。そしてその生徒たちもさらに一週間くらいでまったく彼女に近寄らなくなった。イチハラさんは再び孤立した。
 原因はとある噂によるものだった。私はトイレの個室にいた際に、偶然その内容を耳にした。外から聞こえてきたのはクラスの女子二人の声だった。「塾の夏期講習でさ、偶然ユリの前の学校の子とあったんだよね」
 もちろんその子とはイチハラさんの話になったらしい。けれどイチハラさんは、その時の担任とは付き合っていなかったという。
「その子、ユリと同じクラスだったから間違いないって。なんかその子が言うにはユリ超虚言癖があって、まわりからは距離置かれてたんだって。転校したのは、クラスで上手くやれなかったからっていうのが本当のところらしい」
 ネガティブな噂は乾燥した草地で起きる火災くらいに広がるのが早い。それはクラスの中にとどまらず、たちまち学年中に広まった。
 みんなはイチハラさんにまつわる一つの話の信用性が崩れたことにより、他の話も全て嘘だと決めつけた。そしてイチハラさんに、「噓つき」というレッテルを貼り付けた。
 私は廊下とか下駄箱とか通学路という、学校の至るところでイチハラさんの悪口を耳にした。それには「噓つき」の罪とは何ら関係ない彼女の見た目とか成績に対するものまで含まれており、彼女たちはもはやイチハラさんを攻撃できれば何でもかまわないようだった。
 中にはイチハラさんが近くいるのにわざと聞こえるよう悪口を言うものもいた。すれ違いざまに肩でぶつかるものもいた。体育のバスケットボールの時などは、複数人で結託して彼女にボールを回さないようにするものもいた。
 そしてそういう特にひどい仕打ちするのはもともとイチハラさんに常に付き従っていた、コアな彼女の支持者たちだった。
 当のイチハラさんはというと、そういうまわりの仕打ちに対してほぼ無反応だった。怒って反撃することもなければ、怯えたり悲しんだりもしなかった。まるでやがてはそうなることを予感していたかのように、無表情で、淡々とその新しい状況を受けいれていた。
 ある日の放課後昇降口に行くと、イチハラさんが自分の下駄箱の前で立ち尽くしていた。二年生の、間違いなく彼女の下駄箱の前だった。彼女はぼんやりその下駄箱を見つめていた。下駄箱は空だった。
 私はそっと近づき彼女に声をかけようとした。けれどイチハラさんは意を決したように一息ついて、上履きのまま地面に降りるとそのまま外へ出て行った。
 

 その日を境に、イチハラさんは学校を休むようになった。最初の三日くらいはコロナみたいな感染症の類いも疑われたのだけれど、それが一週間以上に達したところでそれは「精神的な理由」によるものだとみんなが暗黙のうちに理解した。カモセンが欠席の理由をちゃんと説明しないのも、そのあたりに理由があるのを裏付けていた。
 大半の生徒が「嘘がばれてきまずくなったに違いない」と、彼女の不登校を自業自得くらいに捉えていた。一部からは「少しやりすぎたのでは」という声も上がったが、そういう声は、「いやいやそんなことはない」「これくらいの目にあって当然だ」という多数派の声にかき消されていた。
 私はイチハラさんのいない彼女の机を見る度に、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。
 彼女とは友だちと言えるほどの交流はない。なのにイチハラさんの存在は、驚くほど私の心に食い込み根を張っていた。気がついたら彼女のことばかりを見て彼女のことばかりを考えていた。彼女いない学校は、どうしようもないほど味気なくてつまらないものだった。
 私はイチハラさんがまた登校できるようになるために、今自分にできることを考えた。


 帰りの会が終わったあと、私は廊下に出てカモセンを背後から呼び止めた。
「おおイズモ」
 カモセンは私に声をかけられたことに少し驚いていた。
「あの、イチハラさんのことなんですが」
「何か知ってるか?」と彼は食い気味に訊いてきた。彼も一応、イチハラさんのことを気にかけていたようだった。
 私は首を横に振った。当然ながらイチハラさんが来なくなった理由は一つしかない。けれどそれを語ると恐らく話はかなりややこしいことになる。もしカモセンが本格的に原因究明に乗り出して、生徒たち一人ひとりに聞き取りなどしようものなら、きっと誰かがイチハラさんの「武勇伝」のことを言うはずだ。そうなると、逆にイチハラさんの立場が難しくなる。
「彼女が休んでいる間に配られた課題とかお知らせなんですが、彼女の家に届けてもいいですか?」
 あー、はいはいそうだよねとカモセンは肯いた。生徒たちには一台ずつタブレット端末が支給されている。今まで口頭で伝えられたり紙で配られていたお知らせは、タブレット経由のチャットやメールに大部分置き換えられていた。けれどそれでもまだ紙の配布物や提出物は残されている。そういうものは、誰かが持って行かなければイチハラさんのような長期欠席者の手に渡ることはない。
「イチハラさんの住所を教えてもらえないですか?」
 カモセンは少し考えてから「わかった」と肯いた。
「ご家族に住所を伝えていいか聞いてみる」
 私はよろしくお願いしますと言った。


 その日の夜に、私の学校のタブレットにカモセンから連絡がきた。イチハラさんの家族の許可を得られたとのことで、メールには彼女の家の住所が載せられていた。
 次の日の放課後、私は早速イチハラさんの家を訪ねることにした。彼女の住むマンションは、駅近くの住宅街に建っていた。真新しい三階建ての、黒い箱みたいな建物だった。エントランスの自動扉をくぐると、すぐに壁一面の集合ポストに出くわした。その右奥にはさらにもう一つの自動扉があり、そのわきには共用インターホンの機械が設置されていた。
 私はインターホンは鳴らさなかった。もし自分がイチハラさんの立場だとしたら、そんな状況で、例え不登校の要因とは無関係なクラスメイトでもあまり話したくはない。
 私はイチハラさんの家のポストにその日の配布物と、そしてメモ用紙に短いメッセージをしたためて入れた。
「これから学校からの配布物を届けようと思います。迷惑だったら教えてください。 イズモマイ」
 私は学校で配布物がある度に、それをイチハラさんの家のポストに届けに行った。そして必ず短いメッセージを添えた。内容は、「今日、イチハラさんちの前でカマキリを見た」とか、「駅前のファミレス、ぶどうと梨のスイーツフェアがはじまった」とか、本当にくだらないものだった。そして時には簡単な絵も添えた。
「もうすぐ合唱コンクールだよ」とか、「文化祭までには会いたいな」とか、そういう学校の話題は極力避けるようにした。そういう登校を急かすような内容は、きっと今はプレッシャー以外の何ものでもない。
 私が彼女に伝えたかったのは、ちゃんと彼女を気にかけている人間がいるという、その事実だけだった。


 それから一週間ほどが過ぎた頃だった。その日も私は配布物と手紙を携えイチハラさんの家を目指していた。もうすぐイチハラさんのマンションのエントランスというところで一台の車がするりと私を追い抜いた。見覚えのある、白いSUVだった。SUVはマンションを通り過ぎてすぐのところにある駐車場に入庫した。
 いつもどおりポストに手紙と配布物を入れ、振り返るとちょうどエントランスの自動ドアが開いて男の人が現れた。男の人は私に向かって会釈した。私も慌てて会釈した。
「ユリのクラスメイトの方ですか?」
 男の人が訊ねてきた。
「はい」
「いつもありがとうございます。イチハラユリの父親です」
 イチハラさんのお父さんは、髪を中分けにしてサングラスを額にかけていた。Tシャツ、ハーフパンツという出で立ちだった。すらっとしていて背が高く、お父さんというより年の離れたお兄さんの方がしっくりとくる。ぷっくりした涙袋におちょぼ口で、イチハラさんとよく似た顔立ちだった。
「暑いのに、大変じゃないですか?」
「いえいえ。近くなんで、全然大丈夫です」
 私はへこへこと頭を下げた。
「あの、イチハラさんは大丈夫ですか」
「元気ですよ。体はね。一日中ごろごろしてゲームばっかりやってます」
 お父さんは苦笑いして言った。私は少しほっとした。けれどお父さんはすぐ真顔になって、「ユリ、学校で何かあったんですか?」と訊いてきた。
 その質問にはカモセンに対して同様、うまく答えるのが難しかった。
「実は私もイチハラさんとそんなに仲がいいというわけでもなくて、よくわからないんです。クラス内で、ちょっといざこざがあったのは確かみたいなんですが」
 私は無難にそう答えるのが精いっぱいだった。お父さんは、「そうですか」と難しい顔をした。
「ユリに訊いても『体調が悪い』としか言わないんですよ。熱もないし、傍目から見る限りは元気なんですけどね」
 そう言うとお父さんはひとつため息をつき、「とにかくいつもありがとうございます。それでは」と立ち去ろうとした。私は「あの」と彼を引きとめた。お父さんはとても優しそうで話しやすい人だった。どうせだったら、いくつか確かめておきたいことがある。
「この前、イチハラさんにジュースを買ってもらったんです。そのお金、イチハラさんに返してもらってもいいですか?」
 お父さんは、少し驚いた顔をした。
「ユリが返して欲しいって言ったんですか?」
 私は首を横に振った。
「言われてません。でもこういうのってきちんとしておくべきかと……」「大丈夫ですよ。気にしないでください。お金は十分渡してあるのでジュース代なんてたぶん忘れてると思います」
「そうだったんですね」と私は言った。
「実は前にイチハラさんのお財布の中身が見えちゃったことがあるんです。確かにお金持ちだなって思いました」
「いやね、」
 お父さんは少し迷ってから「うち母親がいないんですよ」と言った。
「私も忙しいので、食事代とかもしもの時のタクシー代、病院代として少し多めに渡してるんです」
「そういうことだったんですね。私てっきり、イチハラさんバイトか何かしているのかと」
「違いますよ」とお父さんは笑った。
「中学生ですよ?バイトどころかあの子は学校以外ほとんど家に引きこもってます。だから友だちもいないんです」
「本当ですか」
 私は驚いた。
「まあたまにインスタにコスプレした写真あげたりしてるんで、オンライン上では同じ趣味の子と交流してるみたいですが」
「意外です。学校ではいつもたくさんの子に囲まれてたので、てっきり友だちが多いのかと……。たぶん、彼氏もいてリア充なんだと思ってました」「彼氏いるんですか?」
 お父さんは目を丸くした。
 いえいえと私は急いで否定した。
「私が勝手にそう思っただけなんです。本当にいるかは知りません」
 ああ、そういうことですかとお父さんは肯いた。
「あの子、そっち系の話はわりと何でも話してくれるんです。だから彼氏なんかできたらもちろん、気になる相手ができた時点できっと話してくれると思うんです。最近、そういう話は全然ないので、今は彼氏どころか気になる人すらいない状態だと思います」
「仲いいんですね」
 私は素直に感心して言った。私に恋愛経験はないけれど、私はきっとそういう話をお父さんどころかお母さんにもしない。
「もう長いこと二人だけですからね」
 お父さんは神妙な顔をして言った。
「でも彼氏も友だちも作らないのは、たぶん私のせいなんです。私、飲食店を経営していてお店を全国に展開してるんです。だいたい一年置きくらいに新しいお店を出すんですが、そこがきちんと独り立ちするまで面倒見るので私たちも現地に移るんです。普通の家なら私だけ単身赴任すればいいんですが、うちは母親もいないし祖父母にも頼れない事情があるので一緒にユリも連れていくしかありません。だからユリも小学生のころから何度も転校を繰り返しています。せっかく仲良くなってもすぐに離れ離れになるし、そうなると寂しいので最近ではあえて深い人間関係を築かないようにしているみたいです。今の学校もたぶん来年の春くらい、二年生いっぱいでまた移ることになると思います」
 お父さんは深いため息をつき、それからはっとした。
「すいません、引きとめちゃって」
「とんでもありません」
「あ、そうだそうだ」
 お父さんは手にしていた買い物袋から梨を一つ取り出した。
「これ、よかったら」


 昨夜はよく眠れなかった。イチハラさんのことで、頭がいっぱいになっていたからだった。一晩明けてもその状態は続いていた。授業には身が入らず、昼休みになっても私は自分の机についたまま、ぼんやり彼女のことを考えていた。
 教室には半分くらいの生徒が残っていた。男子は校庭に出る子が多かったので、その比率は女子の方が高かった。彼女たちは三、四人のグループを形成し、教室の各所でわいわい話し声を立てていた。
 そのなかから私の耳に、ふと「ユリ」という言葉が飛び込んできた。発生源はどこだろうと見回すと、それは窓際に立つ二人組からだった。
「ユリ、全然来なくね?」
「もう、このまま来ないんじゃん?」
「バックレやがってマジ腹立つわ」
「結局ユリって何がやりたかったんだろ」
 昨日イチハラさんのお父さんと話すことができ、私は何となく、イチハラさんのやりたかったことが分かったような気がした。イチハラさんは一年あまりで転校を繰り返している。毎回、まったく知らない子たちの中に放りこまれて、そこで一から人間関係を築くのだ。そしてやっと馴染んだところでそこから無理矢理引きはがされて、再びまったく知らない子たちの中に放られる。努力は水泡に帰し、振りだしに戻されるのだ。それでも馴染めればいい方で、きっと最後まで馴染めないケースもあるだろう。最後までみんなから距離を置かれたり、時にはいじめられたりすることもあるだろう。
 そこでイチハラさんが編み出したのが、最初から他人から思われたい自分像を強く打ち出してそれを信じさせ、人間関係を単純化してコントロールするという方法だったのだ。それならば本来要する馴染むまでの時間を大幅に短縮できるし、あわよくばみんなの敬意を集めていい思いをすることだってできるのだ。
 それは一年あまりで学校を去るという、イチハラさんにしかできない荒業だった。
 ガールズバーで働いている。元カレが担任。今カレが大学生。
 ずいぶんと大がかりでセンセーショナルな嘘だった。普通ならそんな嘘をついてもはなから信用されず、即「イタイ子」認定されてしまうところだろう。
 けれどイチハラさんは妙に大人っぽくて、ちょっと危うい感じもかもし出していた。それらを信用させる、説得力があったのだ。
 イチハラさんが、自分を理解した上でそれに合う「ストーリー」を作り上げたのか、逆に演じたい「ストーリー」ありきでそれに合う自分を作り上げたのか、はたまた、そこまで本人が意図していないにも関わらず、結果的に説得力を生み出していたのかは分からない。
 けれど私たちは、あのイチハラさんの前のクラスメイトと塾で出くわしたという子が疑惑をもたらしさえしなければ、きっと最後までイチハラさんの「ストーリー」を信じ続けたに違いない。
 今、窓際でイチハラさんの話をしているのはバレーボール部のミネさんと、帰宅部のオギワラさんだった。
 私には、彼女たちがなぜそこまで怒っているのかわからなかった。イチハラさんが本当にガールズバーで働いていなかったとして、元カレが担任じゃなくてそして今大学生と付き合ってなかったとして、彼女たちがどんな実害を被ったというのだろう。イチハラさんは嘘をつくにあたって誰も傷つけたり貶めたりはしていない。(前の学校の担任には生徒に手を出したという汚名を着せたわけだが、彼女はまさかその学校が突き止められる事態は想定していなかっただろう。だから彼を貶めようという意図は無い。そして結局のところ嘘とバレたので、その担任の名誉は回復されている)そしてその嘘を足がかりに権力を手にしたのちも、それを濫用してわがままに振舞ったりはしていない。傍目から見る限り、彼女たちは自分の意思で、すすんでイチハラさんを崇め奉っていた。
 もし、イチハラさんが嘘をついたという事実そのものが許せないと言うのなら、それは何もイチハラさんに限ったことではない。きっと世の中の中学生なんて、大なり小なりみんな嘘をついている。
 女の子しかいない時には口調も仕草も乱暴な子が、男子の前では上目遣いで弱々しいふりをする。仲良し三人組と見せかけて、そのうちの誰か一人がいない時には必ずその子の悪口を言っている。本当は大して悩んでいないのに、「もう死にたい」とかすぐに大げさな言葉を口にする。
 私だってもちろん例外じゃない。


 小学校四年生の頃、私には四人の気の合う友だちがいた。私を含めた五人組は、昼休みにはいつも集まりおしゃべりをした。下校の際も、いつも一緒に帰っていた。遠足や校外学習の際にはいつも同じ班になるようにして、近所の夏祭りにはみんなで浴衣を着て行った。
 ある日みんなで下校している時のこと、歩道脇の草むらに置かれた段ボールのなかから「ミャアミャア」という鳴き声が聞こえてきた。のぞきこむと、なかには一匹の痩せた黒猫がいた。月のような、とても綺麗な目をした猫だった。私たちはその場で話し合いになった。一体、どうしたらいいのだろう。このままにしておいたらたぶんこの子はニ、三日中に力尽きて死ぬ。運よく生き延びたところで、誰にも拾われなければ保健所に連れて行かれることになるだろう。そうなれば、やはり殺処分されてしまうに違いない。
 私ともう一人は当時賃貸マンションに住んでいて、ペットを飼うのは禁止されていた。もう一人は家族に重度の猫アレルギーがいて無理だった。もう二人は既に犬を飼っていて、それ以上ペットを増やすのは無理だった。
 飼うのが無理でも、本来ならやはり家族や先生、大人に相談するべきことだった。それは全員わかっていた。けれどそうすると、子猫はやっぱり保健所に送られてしまうのではないかと私たちは考えた。
 悩みぬいた末、私たちはもう一日だけ様子を見ることにした。心優しい誰かに子猫が拾われることに賭けたのだ。翌日の通学時には、子猫は前日と同じところにいて相変わらず「ミャアミャア」と心細げに鳴いていた。下校時、子猫の段ボールを大きなカラスがのぞき込んでいた。私たちが駈け寄ると、カラスはバタバタと大きな羽音を立て飛び去った。幸い、子猫は無事だった。
 私たちは子猫の段ボールをその近くの空き家の軒先に移動させ、私たちだけで面倒を見ることにした。私たちはお小遣いを出し合いキャットフードを買ったり、給食の牛乳をこっそり持ち帰って子猫に与えたりした。子猫は日に日に元気になり、そして私たちに懐いてきた。私たちは私たちだけの秘密の世界で、子猫にありったけの愛情を注いでいた。
 一週間くらい経った頃、帰りの会で、担任の女性教師が「みなさんに確認したいことがあります」と言った。彼女の口調はとても固くて冷ややかだったので、私はすぐに嫌な予感がした。
「通学路でうちの学校の生徒が野良猫を育てているという苦情がありました」
 女性教師の話では、現段階で得られている情報で、恐らく「犯人」は四年生の女子複数人であるというところまで突き止めているとのことだった。「きちんと調べれば、必ず誰がやっていたかは分かります。心当たりのある人は、自分から先生に言いに来てください」
 さも生徒たちの自主性を重んじるかのような口ぶりだったが、翌日から生徒たちが一人ずつ呼び出されるという、本格的な聞き取り調査が始まった。 
 調査は毎日七、八人というハイペースで進み、私が呼び出されたころにはすでに容疑者はかなり絞り込まれていた。担任は、「他の子たちはあなたがやったと言っている」「素直に認めなさい」とかなり強い口調で私を責めたてた。もともと神経質で怒りっぽい先生だったが、その時はいつもにも増して怒っていた。彼女は子供たちだけで野良猫を育てようとしたことよりも、自分のクラスの生徒が原因で、学校に苦情が入ってしまったという事実を重く捉えているようだった。
 私は自分の仕業だと認めた。そして、残りの四人の名前も言った。私は、自分たちは決して間違ったことをしていないと信じていた。あの綺麗な目の子猫を守るため、最善を尽くしたと信じていた。だからこそそのことを胸を張って主張した。
 担任は、私の主張に対して自分の意見を言おうとはしなかった。犯人を突き止めることができ、ただひたすらほっとしたようだった。彼女は「今後のことはまた改めてお伝えします」とだけ言った。
 それからさらに数日して、子猫は空き家の軒先から消えた。風の噂では、学校が保護猫活動をしているNPOに連絡し、そのNPOが連れて行ったとのことだった。そんな団体が存在することを、私はその時初めて知った。
 私たち五人の家庭には学校から連絡がきた。
 子猫を勝手に外で育てたら、その餌を目当てにどんどん野良猫が集まってくる。そしてその近くに住む人の迷惑になる。動物を大切に思う気持ちは大事だけれど、どうするかは大人と一緒に考えるべきだった。
 私は両親からそう苦言を呈された。たしかに私には近隣の迷惑になるという考えが抜けていた。そしてもし苦情で学校にばれるようなことがなかったとして、現実問題、あの軒先でずっと猫を育てるのは無理だった。私には、長期的なビジョンも欠けていた。
 私は素直に謝った。
 私は母親に連れられ、空き家のすぐ近くに住む苦情主の一軒家を訪れた。初老の女性は「あらあら。わざわざよかったのに」と、逆に申し訳なさそうな様子をして言った。母が子猫が保護団体に引き取られたことを伝えると、女性は「よかったわね」と微笑んだ。
 ほとぼりが冷めたころ、私たち五人は久しぶりに一緒に帰ることにした。そのうち二人の親に関しては、学校から連絡を受けた際、うちの親とほぼ同じ反応をした。そしてやはり苦情主を訪ねて謝ったという。うち一人の親はほとんど無反応で、その後も特に話題にならなかったらしい。もう一人の親はものすごく怒ったが、特に苦情主を訪ねたりして謝ってはいないという。「誰が私たちのことチクったんだろう」と、一番怒られた子が恨みがましい様子をして言った。他の子たちもうんうんとうなずいていた。担任は、どうやら告発者の名前は彼女たちに明かしていないようだった。私は、私が担任に全てを打ち明けたと告白した。結果的に各方面に迷惑をかけてしまったが、私たちが私たちなりに子猫を守ろうとしたこと自体は決して恥じるようなことではない。だから、「やっていない」と嘘をつく必要はないと考えたのだ。
 四人は唖然として顔を見合わせた。一番親に怒られた子が、「マジかよ」と一言だけ言った。それっきり、四人は別れるまでずっと押し黙ったままだった。
 次の日以降、私は四人から無視された。私が歩み寄ると、四人は背を向けそそくさと去っていく。廊下やトイレで出くわしても、やはり無視されたり逃げられたりした。四人は、私を仲間を売った裏切り者だと決めつけていた。そして私が裏切り者だという噂はたちまちクラス全体に広がった。私は、クラス中から無視されたり陰口を言われたりした。
 地獄のような日々だった。給食の時間も、掃除の時間も、休憩時間も誰も私と目を合わそうとしない。けれど背後からは「裏切り者」という悪口が飛んでくる。下駄箱から何度も靴を持ち去られたりもした。
 自分が正しいと信じた行いだとしても、時には予想に反して苛烈な仕打ちを受けることがある。それも、私が学んだことだった。
 私は家にいる時でも、例えば食事をしている時とか好きなアニメを見ている時にも、無視をされたり悪口を言われた時のことが前触れなく頭のなかで甦り、みぞおちのあたりが鋭く痛む感覚がした。夜は眠れなくなり朝は起きられなくなり、もう学校に行きたくないという気持ちが限界まで高まった頃、みんなの態度にも軟化する兆しが見えてきた。
 それは時を経てみんなが冷静になり、私の主張にも理解を示してくれたからとかそういう喜ばしい要因ではなくて、単にみんなが私を攻撃するのにも飽きてきたからだった。だから私は決して赦されたわけではなく、クラスのなかでは相変わらず孤立したままだった。けれどおとなしくしていれば、背後から陰口を言われたり靴を隠されることはなくなった。
 私はもう二度と攻撃の標的にならないよう言葉には細心の注意を払いながら、そして決して目立たないよう息を潜めて生活した。まれに意見を求められても、やはり自分の意見は言わないようにした。あたりさわりのない、多数派の意見に同調するようにした。そうして私はカーテンや黒板、机や椅子という教室の風景と同化した。
 中学生になると、私がおとなしいことを逆に利用しようとする輩が現れた。私は宿題を丸写しにしたいと頼まれたり、掃除当番を代わってほしいと頼まれたりした。委員会の仕事を私一人に押しつけられたりもした。私はきまって「いいよ」と快く引き受けた。けれどみんなは私に感謝なんかしていなかった。むしろ見下していた。私もそれをよくわかっていた。けれど私は、再びあの地獄に舞い戻ることを心から恐れていた。私が平穏な生活を送るためには、まわりが求める私をそのまま演じるしかなかったのだ。
 私は様々なことを頼まれるたび、快く「いいよ」と言いつつ心の中ではその相手に「死ね」と呪詛の言葉を投げかけていた。
 私はみんなにも、そして自分自身にも嘘をついていた。


「学校来ないで何やってんだろ。暇じゃないのかな」
 オギワラさんが言った。
「いやいや。あいつもともとガールズバー勤務で忙しいから」
 ミネさんがそう言うと、オギワラさんは吹き出した。
「そうかそうか。でもってそのあいまに大学生の彼氏とデートしてんだもんね」
 そうそうと言ってから、二人は怪鳥みたいにけたたましく大笑いした。
「マジうける」
 気がついたら私はいつの間にか立ち上がっていた。そして二人に向かって歩いていた。自分で自分を抑えられないのは久しぶりだった。それくらい、私は彼女たちに怒っていた。
 目の前に立つと、彼女たちは笑うのをやめた。そして、まるで物でも見るかのような冷たい視線を投げかけてきた。
「何か用?」
 ミネさんが言った。
 私は小さく息を吸い込んだ。
「私、見た」
「は?何を?」
「イチハラさんが、白い車に乗るところ」
「は?」
「イチハラさんと二人でファミレス行ったあと、白い車がイチハラさんを迎えにきた」
「……だから?」とミネさんが言った。
「別に。いるんだなって思っただけ。呼んだら迎えに来てくれる人」
 ミネさんとオギワラさんは顔を見合わせた。
「親じゃないの?」とオギワラさんが言った。私はその質問には答えなかった。
「Tシャツに短パン姿で髪はさらさらの中分けで、おでこのところにサングラスをのせてたの。お兄さんみたいな感じの人だった」
 かわりに私はイチハラさんのお父さんの印象をそのまま述べた。
「ええ?」とミネさんは私を訝しみ、小ばかにした笑みを浮かべてオギワラさんを見た。オギワラさんの顔は凍てついていた。
「どうしたの?」とミネさんがオギワラさんに訊いた。
「この子、嘘つかないよ」
 オギワラさんがぼそりと言った。
「マジ?」
 ミネさんの顔も強張った。そう。オギワラさんは小学生の頃、私のいた仲良し五人組の一人だったのだ。
 オギワラさんは私を買いかぶっていた。私はあの子猫事件以来、ちょくちょく嘘をついている。けれど今話した内容は、切り貼りはしたけど確かに嘘は一つも含まれていない。
「え、どういうこと?」
「わかんない」
 二人は明らかに動揺しているようだった。私はさらに彼女たちに近づいた。そしてわざと左右を見てから口の前に人差し指を立てた。
「これ、絶対内緒だよ」
 二人はまた顔を見合わせた。

第二話へ続く
https://note.com/cute_marten912/n/n0573c078b415

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