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【短編小説】わたしたちのやりたかったこと②

 イチハラさんには、やっぱり大学生くらいの彼氏がいるかもしれないという噂は瞬く間にクラス中に広まった。恋愛がらみの、特にこういうセンセーショナルな噂はただでさえ広まりやすいところに「絶対内緒」というラベル付けをしたのがてきめんだった。内緒扱いになるだけで、その噂の信ぴょう性は高まり価値も増す。私の経験上、内緒扱いの噂のほうが、そうじゃない噂よりかえって広がるのは早かった。
 イチハラさんを攻撃していた連中は、その正当性が揺らいだことにより、自分たちはやりすぎたのではないかと今さら焦り始めていた。
 そしてそれに追い打ちをかけるようにして、ある日カモセンがついにきちんとイチハラさんのことに触れた。朝のホームルームでのことだった。
「えー、みなさん知っての通り、イチハラさんはしばらく学校に来ていません。理由はわかりませんが、怪我や病気などではありません。イチハラさんは、大事なこのクラスの仲間です。もし原因がこのクラスにあるのなら、先生は何としてでも解決したいと考えています。思い当たることがある人、もしくは、イチハラさんがまた来てくれるようになるため、いいアイデアが浮かんだ人、いつでも構わないので先生のところまで言いにきてください」
 ミネさんやオギワラさんをはじめとしたイチハラさんを攻撃していた連中は、みなうつむいていた。なかには青ざめている人間もいる。これはいよいよマズいことになったと感じたのだろう。今後、彼女たちにはいつ自分がチクられるかと怯える日々が待っている。
 ホームルームが終わりトイレに行こうと廊下に出ると、後ろからカモセンに呼び止められた。
「イズモ、あれからずっとイチハラの家に行ってくれてるんだってな。お父さんからお礼の連絡きたよ」
 ありがとう、とカモセンは私の肩に手をのせた。
 カモセンがなぜこのタイミングでイチハラさんの話をしたのか不思議に思っていたのだけれど、なるほどそういうことかと腑に落ちた。
 とにもかくにもカモセンが、ああいうかたちでイチハラさんのことを問題化したのは彼女を攻撃していた連中にはかなり効果的だった。やはり、大人との連携は大事なんだと私は子猫事件を思い出した。
 そしてイチハラさんのアンチがおとなしくなるにつれ、少数派のイチハラさん支持派が息を吹き返してきた。彼女たちはイチハラさんが大学生と交際しているとかガールズバーで働いているとかそういうエピソードにはあまり興味はなくて、純粋に彼女の人となりを好きな人たちだった。つまり実際に付き合ってみて、自分の感じたことを大事にする人たちだった。彼女たちはイチハラさんがいじめられている時にも心を痛めていた。けれど当時イチハラさんを攻撃していた急先鋒は、ミネさんやオギワラさんたちなどスクールカーストの上位者で、彼女たちの方針に対してあからさまに異を唱えるのは難しかったのだ。ある意味本当のイチハラさんのファンである彼女らは、彼女を見殺しにしたのをずっと悔いていた。
 彼女たちは私がひんぱんにイチハラさんの家に行っていることを知り、自分たちも手伝うと申し出てくれた。彼女たちは一緒にイチハラさんの家に行ってくれたり、私の体調が悪い時には代わってくれたりもした。手紙も代わりに書いてくれたり、一緒に書いてくれたりもした。
 そんなこんなで秋は深まり、冬が訪れた。
 コンビニやファミレスのハロウィンキャンペーンが終了し、クリスマスのラインナップに一新されてもイチハラさんはまだ学校に来なかった。
 クラスではすでにイチハラさんを悪く言う人間はいなくなっていた。カモセンや私をはじめとして、多くの人間がイチハラさんがまた来るのを待っていた。あとは、イチハラさんがまた学校に来る気なるよう、何かきっかけを作るだけだった。
 手紙のネタはもうとっくに尽きていた。伝えたいことは全て伝え尽くして、最近では「うちの電子レンジが新しくなった」などというどうしようもないほど些細な内容になっていた。
 イチハラさんが思わず学校に来たくなるメッセージ。
 悩みぬいた末、私は一つの考えに行き当たる。それは代償を伴う賭けだった。もしイチハラさんが私に何の興味もなかったら、彼女にとってそれは電子レンジの話題と何ら変わることはない。
 怖いけれど、私にはイチハラさんの私に対する気持ちの現在位置を、どうしても確認したいという思いもあった。
 私は覚悟を決めてそのメッセージを書き、祈るような気持ちでイチハラさんの家のポストに入れてきた。
 翌日の朝のホームルーム開始寸前のことだった。クラスの生徒たちは既に揃っていておおむね席についており、カモセンがやって来るのを待ちうけていた。やがてガラリと扉が開く音がして、反射的にそちらを見て私は自分の目を疑った。そこにはカモセンではなくイチハラさんが立っていた。騒がしかった教室は、テレビの音量を一気に絞るようにして静まった。イチハラさんは目を細めて教室を見まわしていた。一見、ガンを飛ばし散らかしているようにも見えたのだけれど、彼女は単に誰かを探していた。
 イチハラさんの視線は私の方でぴたりと止まり、彼女はさらに目を細めて顔を突き出した。そしてそのままの中腰の姿勢で私のところまでやってきて、そこでやっと大きく目を見開いた。
「ほんとだ」
 マジウケるんだけど、とイチハラさんは天を仰いで大笑いした。
 イチハラさんは大型犬でも扱うかのように両手で私の頭を撫でまわしたあと、私の髪をきれいにもとに戻して正面から見て、「うん。かわいい」と頷いた。そしてまわりの視線をものともしないで自分の席に行き、まるで空白の時間など無かったように平然と腰かけた。
 休憩時間になる度、イチハラさんのもとには彼女の復帰を心待ちにしていた子たちがかわるがわる訪れていた。おかげで、久しぶりの教室のイチハラさんも、すぐに調子を取り戻した様子で笑顔を見せていた。
 対照的にミネさんとかオギワラさんとかイチハラさんを攻撃していた連中は、とても居心地が悪そうだった。いつもなら終始喚き散らしているところを、みんなうつむき神妙な顔をして、まるで病院の待合にでもいるかのようだった。久しぶりにイチハラさんが来て気まずい気持ちになったのは、むしろ彼女たちの方だった。
 それからというものイチハラさんはほとんど学校に休まずにきた。彼女は新たな仲間たちと通学路を歩いたり、公園やファミレスに集まりおしゃべりをした。私も、時折そこに加わった。
 私の知る限り、イチハラさんはこの学校に来て以来、初めて穏やかな日々を過ごしていた。
 身を切るような寒さも一段落し、校庭わきの花壇で菜の花が一斉に咲いたころ、イチハラさんは再び転校することになる。私は、言いようのない寂しさに襲われた。彼女のお父さんからあらかじめ聞いていて、ちゃんと心の準備をしていたのに駄目だった。
 私たちは、イチハラさんと仲の良かった子たちだけで送別会をしたいと彼女に申し出た。けれど彼女は「いいよそんなの」と辞退した。
 せめてもの餞別として、私たちは寄せ書きをした色紙をイチハラさんに渡すことにした。イチハラさんは受け取ってくれはしたものの、なんだか複雑そうな顔をした。
 そして終業式を終え、春休みになった。初日の午後にはこちらを発つとイチハラさんから聞いていたので、私は十一時ごろに彼女の住むマンションに行くため家を出た。私には、どうしても彼女に伝えたいことがあったのだ。
 マンションの前にたどりつくと、ちょうど小型トラックが走り去るところだった。けれど白い車は停まっていて、その脇には上下ジャージ姿のイチハラさんのお父さんが立っていた。お父さんは私に気づくと「ああ、どうも」と会釈した。私も「こんにちは」と会釈を返すと、ちょうどマンションのエントランスの自動扉が開いて、スウェットの上下にダウンを羽織ったイチハラさんが現れた。黒ぶちの大きい眼鏡をした彼女はすぐに私に気づいて「あ」と言った。
「ごめん、来ちゃった」
「ありがとう」
 イチハラさんは少し恥ずかしそうな様子をして言った。
「荷物の積み込みはもう終わったの?」
「うん。もともと少ないからね。あとは私たちが引っ越し先にうつるだけ」 
 そうだったんだと言って、一度私は黙ることにした。イチハラさんが、何か言いたそうなことがあるのを感じたからだった。彼女はうつむき、しばらく足先で地面のタイルの溝をなぞっていた。少しのあいだの沈黙ののち、彼女は重い口を開いてくれた。
「私のこと、軽蔑してるよね」
 私はものすごく悲しい気持ちになった。
「どうしてそう思うの?」
 きっと顔にも現れていたのだろう。イチハラさんは慌てて「違うの」と首を横に振る。
「別にマイちゃんの気持ちを疑ってるとかそういうのじゃなくて、なんて言うか色々迷惑かけちゃったから。だから……」
 イチハラさんは私と目を合わせようとはしなかった。うつむき、激しく瞬きをしながら「だから」と繰り返していた。
 当然ながらイチハラさんのお父さんは、前に私と話したことをイチハラさんに伝えているはずだった。つまりイチハラさんは、十中八九、私には嘘がばれていると考えているのだろう。
「最後」だからこそ、彼女はきちんと謝りけじめをつけたいのかもしれない。けれど申し訳ないけれど、それはあくまで彼女の気持ちの問題であり私にとってはさほど重要なことではない。
 私は、勝手に区切りをつけようとする彼女に初めて少し苛ついた。だから私はそれを阻止することにした。そしてイチハラさんがあくまで自分本位にものごとを進めようとするならば、私も自分本位に自分の思いをぶつけることにした。
「ねえ見て、買ったんだ」
 私はカバンからぴかぴかのスマホを取り出し、イチハラさんに見せた。
 イチハラさんは目を丸くし「持ってなかったんだ」と言った。
「私さ、スマホ欲しいなんて思ったこと今まで一度も無かったんだよね。でもイチハラさんが転校してきて初日にほら、一緒にファミレス行ったじゃない?あの日から私、イチハラさんのこともっと知りたい、仲良くなりたいってすごく思うようになっちゃって。どうしてかって言うと、イチハラさん私のことかわいいって言ってくれたじゃない?イチハラさん覚えてないかもだけど、私それがものすごく嬉しかったんだよね。かわいいって思ってくれるんだったら、もしかしたら友だちになれるかもって、舞い上がっちゃったんだよね。私もう小四くらいから友だちって呼べる人なんていないんだけど、だからこれからもずっとできないだろうってあきらめていたんだけど、それが『もしかしたら』って思っちゃったんだよね。だから頑張って何回もイチハラさんに話しかけようとしたんだけど、イチハラさんいつも誰かと一緒にいたでしょ?そうするとほら、私チキンだからそこに入り込むとかできなくってさ。話したいのに話せない。どうしたらいいんだろうって悩んでいたら、そうだイチハラさんスマホ持ってるじゃんって思いついたんだよね。スマホがあれば、勇気がなくてもイチハラさんに話しかけることができるでしょ?それでね、私スマホ買おうって決めたんだよね。もうね、去年の五月くらいには決めてたの。そこから親を説得したりお金を貯めたりして約一年、昨日やっと手に入れたんだよ。ほら見て、これが私の」
 イチハラさんはがばりと両方の腕を私の首に巻き付け深く抱きついてきた。右耳のうしろで、イチハラさんがすんすんと鼻をすする音が聞こえてきた。イチハラさんは、そのまま何も言おうとしなかった。私はどうしてよいかわからず彼女の後頭部をよしよしとした。



 その日の夜、イチハラさんからLineで写真が送られてきた。
 ピカピカの飴色のフローリングの床に、五十枚くらいの、大小様々な紙切れがびっしりと並べられていた。それは私が彼女に送り続けた手紙たちだった。
 下手くそなカマキリ、電子レンジの絵も見えた。最後の手紙は、「おもいっきり髪を切る」だった。
 写真の下には、一言メッセージが添えられていた。

「宝物」

 それが、私の人生初Lineだった。


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