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映画『PERFECT DAYS』と毎日を生きること

年末にPERFECT DAYSを観た。
映画通では全くないので監督がどんな方でどんな過去作があってどんな作風なのかとか、社会問題が〜とか貧困の美化が〜とかそういうのはよくわからない。

Xでは様々な意見を目にしたが、わたしは好みだったし、個人的に最近考えていたことの1つの在り方を見つけられたように感じられた映画だった。

たまたま他の映画を観た際の予告で惹かれて観に来た人間の、ただの感想である。
こんな前置きは本来は必要のないもので、けれどもどうしても予防線を張ってしまうのはわたしの弱さの表れである。


映画を観る数日前のことだ。
「毎日同じことの繰り返しで嫌になりますよね」
同僚たちとの雑談中、1人が言った。
わたしも、他の同僚も、口々に同意を示した。

わたしは昔から飽き性だ。
前の職場を辞めた理由の1つは、同じことの繰り返しに嫌気がさしたから、である。
だからわたし以外にもそう感じる人はいるのか、とどこか安心した。
ただそれと同時に最近はこう思ってもいた。

「でも毎日を同じことの繰り返しにしているのって自分なのかもなって思ったりもします」

同僚を否定する意味は全くない。
前述した通り、わたしだって繰り返す日々に辟易としている。
ただ、自分の生活を振り返るとこう思えてしまうのも仕方なくて、結局は自身の問題なのかもしれない、と最近感じていたのだ。

言ってからもしかしたら説教くさいと思われたかもしれない、と不安になった。
不安をよそに同僚たちはなるほど、なんだか深いですね、と茶化して笑ってくれたのだった。



映画を観たあと、日々は同じことの繰り返しだし、それでいて全く同じ日は一つとしてないのだ、と思えた。

巨視的に捉えれば毎日起きて仕事して食べて寝ての繰り返しだし、微視的に捉えれば寝起きの気分も天気も植物の成長もすれ違った人も交わした会話も全部その日だけに起こったことだ。

それをどれだけ自覚して受け取れるか、取るに足らない些細な変化として捨て置くか、良いも悪いもなく、人それぞれなのだと思う。
どこまでを巨視的だと、どこからを微視的だと捉えるかも含めて。

それが劇中で平山が毎日撮る写真の意味だし、最後に字幕であの言葉を出した意図だと感じた。


映画が進むにつれ、だんだんと固まっていた気持ちが解れて楽になっていく気がした。

凍えるほど寒い日に浸かった湯船の中で、解れて温まっていく身体を自覚する感覚だった。
心身ともに疲弊して帰還した自宅にて、温かい味噌汁を飲んだ時と同様の気持ちになった。

別に泣くような場面ではなかったのにじわりと涙が出てくる、そんな場面が散りばめられていた。

静かな詩みたいな映画だった。
誰の中にも存在する日々の記録みたいな映画だった。




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