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#青ブラ文学部 宮沢賢治の青春

岩手やま
いただきにして
ましろなる
そらに火花の涌き散れるかも

この歌は賢治がただ一人の親友と語る保阪嘉内と盛岡高等農林学校3年の夏泊まりがけで岩手山に登ったときに詠んだ歌です。このときの思い出は賢治と嘉内にとって忘れられないものとなりました。
今年3月24日にNHKで放送された宮沢賢治業の花びら~父と子の秘史では、このときのエピソードとして夜中に登山しているとき賢治の持っていた松明が急に消えかけてしまい、ふたりで交互に息を吹き掛けて再び火を起こしたということをドラマ仕立てで紹介していました。
その後二人が離れた後も賢治は嘉内宛ての手紙の中でこの岩手山の夜のことを何度も何度も回想して書き送ってます。
しかし結局ふたりは別々の道を歩むことになります。
詳しくはこちらに載っております。


盛岡高等農林学校の自啓寮に一級下の保阪嘉内が現れたとき
「トルストイのような人生を送るために農業学校に来ました」
と語ったそうです。
トルストイは晩年財産を農民に譲って旅に出て旅先で客死しています。
さらに嘉内は、農家百姓こそ人間の生きる道であると語ります。

嘉内が石川啄木に興味を持っていることを知った賢治は、入学直後に啄木の短歌に詠われた旧制盛岡中学校(賢治の母校でもある)校舎のバルコニーに嘉内を案内したそうです。
そのときのことを嘉内は「宮沢氏と盛岡中学のバルコンに立ちて天才者啄木を憶ひき夕日赤し」と日記に書き残しています。

石川啄木の歌

教室の窓よりにげて
ただ一人
かのしろあとに寝に行きしかな

不方来のお城の草に寝転びて
空に吸はれし
十五の心

賢治も啄木と同じように盛岡城址で寝転んだ歌を作っています。

城址の
あれ草に臥しこころむなし
のこぎりの音風にまじり来

寮の懇親会で、賢治と嘉内達は戯曲を発表することになりました。
「人間のもだえ」と題するその脚本を、嘉内は数日で書き上げました。
賢治は黒塗りの神さま(全知全能の神ダークネス)に扮し
嘉内は全身赤塗りの神さまに扮して。

また賢治と会う前の甲府中学時代の嘉内(山梨県韮山市出身)は様々な文章やスケッチを残していて、「風の三郎」という神さまの祠や「ハレー彗星」のスケッチがありました。(スケッチの端には夜行列車のようだと書かれていた)
山梨県から童話やまなし
「甲斐国誌」にある風の三郎ヶ岳

しかし大正7年3月発行の同人誌アザリア第6号に寄稿した「社会と自分」中に、社会主義的なことが書いてあったのが問題となり退学処分となってしまいます。賢治は学校当局に再考を求めたが処分は覆らず、退学が決まり寮を出る嘉内に賢治は「漢和対照妙法蓮華」を贈ったようです。
作品のモチーフである「突然の別れ」もこの出来事が大きく影響してると思われます。
観念的な賢治を嘉内は批判し実践的な道を歩もうと二人は決別します。
嘉内もまた40歳の若さで亡くなるのですが臨終の枕元には賢治から送られた手紙がすべて置いてあったそうです。





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