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#青ブラ文学部 業の花びら~宮沢賢治秘めたる恋

ありあけの
月はのこれど松むらの
そよぎ爽かに
日は出でんとす

これは宮沢賢治が父政次郎と関西旅行に行った際、二見ヶ浦で詠んだ歌です。

今年3月24日NHKで放送した番組業の花びら宮沢賢治~父と子の秘史を観てまとめました。
ありあけの月とはどういう月なのか。二人が夫婦石にいった大正10年4月4日の月を調べたところそれは二十六夜だと分かりました。
関西旅行の翌年に書いた童話二十六夜はこのときの体験を題材にしたと推定されます。
旧暦6月24日から26日までの3日間に、北上川沿いの松林に住む梟の群に起こった出来事が書かれています。
弱肉強食の世界に生きることを嘆く梟が自分を犠牲にして仏となった雀に救いを求めるという童話です。


宮沢賢治は父政次郎と常に対立し事あるごとに口論していたといいます。 
質屋という職業、宗教上の対立(賢治は法華宗、政次郎は浄土真宗宗)など。
大正10年春賢治が家出して上京して暮らしていた本郷の下宿に父政次郎が訪ねてきて賢治を京都・大阪・奈良・大津へ旅行へと誘います。
そこで二人は和解を果たします。
一体どんなことを話したのでしょうか?

宮沢賢治の親友に保阪嘉内という詩人がいます。
銀河鉄道の夜に出てくるカムパネルラのモデルとなったといわれ
ています。
彼がはじめて盛岡高等農林学校の学生寮に来たとき「トルストイのような人生を送りたくて農学校へ来ました。」と真剣に話しました。
二人は意気投合し寮の懇親会で「人間のもだえ」という戯曲を発表したり、同人誌「アザリア」を作り始めるのですが嘉内の書いた文章が危険思想の持ち主であると判断され退学処分を受けてしまいます。
突然の別れ…

その後賢治が嘉内に送った手紙には「保坂嘉内保坂嘉内保坂嘉内私を捨てるな」というものがあります。
賢治は嘉内に叶わぬ恋を抱いていたと番組では推測しています。
賢治は家出して上京していた1921年7月、上野の帝室図書館で面会しますが、その日の嘉内の日記には「宮澤賢治面会来」と書かれた文字を上から斜線で消されています。
宮沢賢治の日記には「これはあってはならぬことだあってはならぬことだ」と悲痛な思いが述べられています。
この時期を境に賢治から嘉内への手紙の数は大きく減り、以後再び会うことはなかったとされています。


番組では二人の関西旅行の際、賢治が父政次郎に同性が好きであると告白したのではないかと推測しています。

宮沢賢治の死後三年後賢治を記念する詩碑が建てられたのですが詩を選ぶにあたって関係者と協議した際父親が選んだのは「雨ニモ負ケズ」ではなく「業のはなびら」でという詩だったそうです。


業の花びら     
                                          
夜の湿気と風がさびしくいりまじり

松ややなぎの林はくろく

そらには暗い業の花びらがいつぱいで

わたくしは神々の名を録したことから

はげしく寒くふるへてゐる



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