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50.2%と49.8%

朝、まずは走る

この週末、本当にいつぶりか分からないくらい、
私は2日連続で長い距離を走った。長らくまともな
ランニングをしないままで過ごしていたせいで、筋力は
すっかり落ち、気候的に半ズボンを履いて走るも、
何となく引き締まっていない身体がそれを如実に表している。
いや、別に走るために特化した体型でなくてはいけないわけでは
ない。あらかた仕事の時の制服のサイズを変えるほどでないなら、
何の支障もないので、そこまでこだわる必要はないわけで。
とはいえ、「どうせやるなら」という欲が、久しぶりに沸いてきた。
いくら周囲に言われようとも、結局、心が動くことは、時間が解決
するのかもしれない。いや、解決しないといけないことなのかどうかも、
結果的に自分が決めることなので。
「走るならやっぱり。」欲は自分の心と体を動かしていく。

過去は過去。今は今。

以前、まともに走っていた頃、私は次から次へと(マラソンでいうなら)
タイムを伸ばしていった。おもしろいようにタイムを伸ばし、それは、
気付いたら、周囲が羨むようになる。そうなると、急に、「こうでないと
いけない」というような、結果主義のようなものに縛られ、いや、勝手に
自分を縛り付け、そして私は疲れた。趣味でやっていることで、どうして
周囲からの評価で私の心は一喜一憂しなければならないのか。自由であるはずのランニングは、そうでなくなっていく。そんなの気にする必要ない、と
言われたらそれまで。
しかし、その当時、それが出来なかった。
今はどうだろう。1歩、引いて、見てみる。
走る自分はそこにいるが、走ろうとする自分は、自分の外の側。
目標を持って走る自分を、評価する他人を、自分はまたもう1つ外から
見る。難しいようだが、言ってみれば、常に自分は、外の側から、
ぼーっと見ている感じ。第三者。
結果を1度残すと幸か不幸か、人は自分を見る目を変える。それがたまたまであろうと、結果とは強力な事実であることに違いはない。
人はそう見る。自分がその中に埋没すると、その結果が自分を苦しめることにもなりかねないが、今の自分ならそうはならぬ。
過去の自分の実績を生かし、今の自分はそれを1つの強みとしつつも、
過去と今を無理につなぐことはしない。
比べるのは、好きに他人がすればいいことで。
それにこだわることは、私からすれば無意味でしかない。

頑張るとか、そんなたいそうなものではない

今日は何キロ走ろうかとか、どれくらい頑張る、とか、最初から
決めない。あくまで自由。気持ちが乗ればそれなりに。
頑張ろうとすると、だいたい空回りしがちなので、
気付いたら、頑張っていた、くらいがちょうどういいわけで。
そう考えると、一生懸命とか、本気とか、そんなのは、ほんの
一瞬に過ぎず、あとは、外の風に吹かれて、地面を蹴っている、くらいの
感じが、いちばん絶妙。
走る楽しさは、そこにある。

なんのために

走ることは1人で始め、1人で終わる。
究極に個の時間と空間であって、ややもすると孤独と戦うとか、
言いかねない。
以前もそうなってしまい、結果的に嫌になった。
しかし、たしかにその事実は変わらないにしろ、
そういう時間を、他人に伝えることでその時間と空間に
意味を見出すことが出来るようになりつつある。
とはいえ、そういうことを言える機会があればこそなのだが。
だいたい、こんな話をしても、興味のない人には、苦痛でしかない
だろう、価値観の押し付けほど無意味なものはない、と思っている。
それは変わらない。しかし、そう1人よがりにならず、
このブログだってそうだが、案外、自分の信念のようなものは
人はおもしろく耳を傾けることを知った。いや、知りつつある。
半信半疑ではあるが。
なんのために走る。
自分のためといえばそれまで。ただ、これからはたぶんそこで
完結はしない。だからまたちょっと走ろうと思えているのは確か。

プレーヤーであれ。

スポーツにしろ、何でもそうだが、有名な人を外からああだこうだと
何でも言える側にいるのは、誰にでも出来る。しかし、やはり私は
そこに居続けることが楽しいとは思わない。ある程度結果を残した
からこその、プレーヤーの側に。
それは、時に後悔の連続だったり、
苦痛でしかなかったり、おそらく、50.1%くらいはマイナスの感情
だったりする。49.9%は自分の強みになっているとしても、ほんの
少しの差で、マイナスが勝つと、とたんに苦しい。
今、私は、50.2%くらい、強みと言える。マイナスの感情だって、
絶対にあり続ける。それでも、プレーヤーとして、ちょっとずつ
休日に走っていこう。

#休日のすごし方

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