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2022年5月2日(月) 二コマコス倫理学

 

 第1回おもしろかった。

 『倫理学』と聞くと、小学生の頃の道徳の授業を思い出す。~すべきだ。~でなくてはならない。など、禁止や義務といった概念を軸にした倫理学(義務論的倫理学)。インマヌエル・カントが提唱したようです。

 一方で、アリストテレスが提唱したのが倫理学(幸福論的倫理学)だったかな?人のあらゆる行動、決定などは幸福を目的としている。それなのに幸福になれる人となれない人がいる。それがなぜなのか、第2回以降を見ていくとわかりそうだ(理解できるかはわからないが)。

 倫理学は「実践的学」だとも言っている。実践的学とは実践しながら学ぶ学問のことだ。対照的に「理論的学」は数学など知識を得ることを目的とした学問。数学は1+1=2のように正解が1つ。倫理学は数学のように正解が1つではなく、「ゆらぎ」がある。たとえば戦場で勇者がいたとする。勇気があるがゆえに戦況が悪くなってきても最後まで戦い戦死してしまう。他には、お金持ちがいたとする。強盗が入り、お金を盗まれただけでなく殺されてしまった。このように、善を積んでも失敗してしまうこともある。アリストテレスはこのゆらぎを大体で捉えていた。つまり、勇気があることは基本的には善いことで、そのことによって失敗してしまうという特例はおいておく。

 なるほど。特例のほうが印象に残り、通例が軽んじられることはあると思う。「真面目な人が損をする」といったことをよく聞く気がするが、これは特例の方で、基本、真面目な人は成功するはずである。
 
 二コマコス倫理学を理解できるかどうかということもアリストテレスは本書の中で触れていた。言葉は微妙に違うかもしれないが、「若者にはわからないだろう」と。ここで言う「若者」とは文字通りの意味ではなく「人生経験が浅い者」のことを言っている。

 近年の若者は国語力が落ちてきているといった内容の記事をどこかで読んだことがある。もちろん、全員ではないし、若者でなくてもあてはまる。近年で核家族化が進みさまざまな共同体の解体による孤立化、さらにインターネットの伸長による弊害や人格への影響(興味のある分野しか見なくなるなど)が影響しているんじゃないか、と素人ながら単純ではあるが考察してみた。

 本を読むという行為は、読者の知識や経験が試されることなのかもしれない、と何かの本で読んだことがある。自分の都合に合わせて読んでいく場合があるかもしれません、とも書かれていた。

 キリスト教では、聖書に書かれている事を理解できるかは行い(実践)によると教わった。倫理学が実践なしに理解できないというのに通ずる気がする。 

 読解力とは国語の知識が必要と思っていたが(もちろんそれも大事ではある)、どうやらそれだけではないらしい。

 二コマコス倫理学、第2回もたのしみである。

 

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