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046 写経という仕事

日本で木版の印刷技術が行われたのは、770年に称徳天皇が陀羅尼(ダラニ)経を木版で百万巻印刷してからとされています。しかし印刷技術としての木版が本格的に普及するのは江戸時代になってからです。それまでは、書類のコピーを必要とするときには、手で書き写す筆写が一般的でした。
資料等を手で書き写す筆写が、最初に組織的に行われたのは、東大寺です。正倉院にある経典を普及させるために、写経所が設けられ、経典の書写が行われました。
正倉院はもともと、聖武天皇の遺品を収蔵する倉庫として756年に建立された倉庫ですが、その保管機能の高さから、収税品の保管庫としても使われるようになりました。
そして、遣唐使や海外に派遣した留学僧たちが行くたびに書写・購入して持ち帰った大量の経典もここに置かれるようになりました。そして、それらの経典を普及させるために、ここで筆写が行われるようになったのです。写経と呼ばれるのがそれです。
正倉院の写経所には、専属の写経師だけでなく、写経された経典の誤字をチェックする校生や、写経料紙の紙すきの専門家や罫線を引く担当者、経典を巻くための軸を付ける軸付けの専門家なども採用されていたそうです。正倉院に残る古い文書に、写経師たちの仕事ぶりを紹介した資料がある、と国立歴史民俗博物館の展示案内冊子(①『日本の歴史と文化』)に記されています。
写経所では、写経作業は毎日行われたようです。写経を行うにあたって、写経師は体を浄め、仕事用の浄衣に着替え、袴と冠で正装して机に向かいました。この浄衣は、写経することで炭の汚れなどが付いたようですが、それらはいまでも正倉院で見られるようです。
写経作業は、もともとの経典の書式にかかわらず、1枚の写経料紙に、1行17字×28行=476文字を筆写することが求められ、平均1日3,000字(400字で6~7枚)程度が書かれたそうです。標準フォーマットを決めて、1枚の写経紙に書く字数を一定にすることで、作業量の把握をしやすくしたのでしょう。
そして、書き手の経験や熟練度によってでき高に応じた布施(=工賃)が支払われました。平均的には、布施は、写経料紙40枚で布一端=約200文、つまり一枚5文(8世紀中頃の5文は米4合に匹敵)だったそうです(『前掲①日本の歴史と文化』展示案内冊子、国立歴史民俗博物館)。
これを校生が、4日間で初校、再校を行い、500枚ほどを校正して、布施は布一端=200文ほどの収入だったとか(②『正倉院文書の世界』丸山裕美子 中公新書)。
写経師たちの1日の仕事量としては、写経料紙にして、「6枚では生活を支えるに若干苦しく、7~8枚あたりが妥当ではないか、それでも、生活は苦しく、役所から前借することも多く、待遇改善の要求の文書なども一緒に残されている」と、園田学園女子大学教授の大井重三郎は書いています(③『奈良町末期写経師の実態』園田学園女子大学論文集17)。
7枚という仕事量は、前述のフォーマットに従って1枚を17字×28行として計算すると、文字数は17×28×7=3,332字と、かなりの量です。
今日、わたしたちが見る、正倉院に残されている経典の文字は、力強いていねいな筆致で、楷書で書かれています。あのしっかりした文字で、一日6~7枚、約3,000字を書き写し続けるのは、集中力も求められ、容易な作業ではありません。

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