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053.律令時代の物流規程

寡聞にも、伊能忠敬以前の10世紀に測量をして地図を作成したという話は聞いたことがありませんが、中央の朝廷が租庸調雑徭の税額を算出するためにも、ある程度の地図が必要でしょうから、それなりの地図は作られていたということになります。
初めて地図を作ったとされている、伊能忠敬をさかのぼること、1000年の昔です。測量、地図作成に関しては、日本の歴史からこのことが全く欠落しているのはどういうことでしょうか? 専門家の意見をお聞きしたいところです。
設定されていたのは距離だけではありません。
駅に設けられていた伝馬を管理する部署もあり、伝馬を使用する際の規定なども明確に定められていました。
このほかに、
・運搬人に支給する運搬中の食糧の米の量は、出発より官に納めるまでは1日に米2升(当時の1升は4合)、塩2勺、帰りの工程は半分
・陸路の荷馬1頭の運賃
・米1石当たりの船賃、水手の賃金
・運搬人の日当
……など、さまざまなものが「諸国運漕雑物功賃」として細かく決められているのです(『延喜式』「主税式」巻26・27)。
こうした数量規定はさまざまな分野に及び、例えば、高級絹織物を織り、染色などを行う織部司について、「織部式」の中で、機織作業の作業者の定員から、
・高級絹織物の一疋(長さ5丈1尺・広さ2尺2寸)あたりの原糸量、
・織手の数、
・1日あたりの法定工程量
などが、長功(夏の長時間働ける日)、短功(冬の短時間しか働けない日)に区別して設定されています。
これらの数量規定は、もとはと言えば中国の隋・唐のものをまねて制定したものです。しかし、ここまで細かいものは向こうにはありません。

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