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044.科学的なマネジメント採用の歴史

第二次大戦で焦土と化した日本は、2度目の欧米産業へのキャッチアップを体験しました。そのきっかけになったのは、やはり、アメリカでした。
大戦後、米軍が日本に駐留するようになり、必要な通信機器などを日本で調達することになりました。しかし、焦土から立ち上がったばかりの日本産業界には満足な設備もなく、製品を作らせてみると、品質が悪く、とても使い物になりませんでした。日米産業の技術力の差は大きく、米国のものづくりの質の高さと物量に日本の産業界は圧倒されました。
そうした状況のなかで、日本に駐留していた米軍の本部(正式に言えば、連合国駐留軍のGHQ(ゼネラル・ヘッド・クォーター)は、日本国内での調達をめざして、日本の産業を育成するとの方針を打ち出します。必要な通信機器などを日本で調達できれば、アメリカから運ぶよりずっと安く調達できるからです。
GHQによる指導を得て、日本の産業界が最初に取り組んだのが品質改善です。米軍を通じて招聘された専門家から、統計的に品質を管理する方法を学びました。後にデミング賞のきっかけとなったW・エドワード・デミング博士のセミナーが開催されたのは1950(昭和25)年でした。
製造の現場で、良い品質を確保するためには、厳しい検査を行って不良品を排除しなければならないという考え方が当たり前だった時代に、加工物や設備に触れることなく、データを統計的に計算するだけで不良の原因を解明するという、スマートな手法に、企業の品質担当者たちは目を見張ります。
そして、検査で不良品をはじいて品質を保証するのではなく、不良のできない工程を作って、高品質を保証する、という考え方と手法は、日本の産業界にまたたくまに浸透していきました。
こうして産業界は急速に力をつけ、1979年(昭和54年)にはハーバード・ビジネススクールのエズラ・ボーゲル教授が、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を著し、急成長を続ける日本に学ぼうとアメリカ産業界に警鐘を鳴らすところまで到達しました。
人口でアメリカの3分の1、国土面積で25分の1、しかも天然資源のほとんどない日本が、大国アメリカと一人当たりのGDPで肩を並べるようになったことは、世界からも大きな驚きを持って見られました。
こうしたなかで、日本のものづくりは世界的にも高く評価されるようになっていきましたが、いまでも、日本人の中には、わたしたちは、とかく理性より感情に頼り、デジタルよりアナログな管理を得意として、前近代的なマネジメントや人事管理が行われがちで、科学的管理がなかなかできない国、というイメージを持っている人は少なくありません。
数字を基にしてドライに判断・処理することに抵抗を感じ、とかくウエットに対応しがちな国民性もあって、「科学的管理に遅れた国」のイメージはなかなか払拭できないようです。
しかし、わたしたちの、
・科学的なマネジメントや数値管理に弱い国民性
という評価は、歴史的に見ても必ずしも正しいとは言えないかもしれません。

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