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4月の読書感想文

 3月末、体調を崩したが、せっせと動き回った。小田実『何でも見てやろう』の効果が残っている。効果抜群だ。3分の1も読んでないし、ずっと小田“みのる”だと思っていたのだが。
 回復しつつあると、大学が始まるというのに、またあちこち旅を始めた。穴水町にも行った。父親くらいの年の集団にまじり、彼らの頼もしいこと、自分のか弱いこと、いやほど知らされた。なんだ、復興なんて、何も進んでないじゃないか。悶々とした。
 悶々としたので、ガザについての本(宮田律『ガザ紛争の正体』)を買った。しかし、読んだからといってどうすることもできず、そのうえ何も分からなくなった。
 帰ってきたら、鋭く澄んだ空気が、なま温かくなっていた。難しい本(隈研吾『新・建築学入門』)も読んでいたので、頭が茹であがった。建築というものは哲学だった。
 好きなようで避けてきた哲学。何から手を付けるべきか分からないので、とりあえず内田樹『寝ながら学べる構造主義』を読んた。哲学の書のなかでは優しいほうだと思うが、茹で上がった頭には難しかった。
 新書コーナーで優しい本を見つけた。田中淳夫『割り箸はもったいない?』、「割り箸はもったいなくない」と言いたいのだろうと、分かってはいたがあえて読んだ。思いの外、示唆に富み、森林伐採について考えさせられた。しかし、ほとんど忘れてしまった。無念。
 たまに読書会をにする。本を語れることは幸せだ。願わくば人が入れ替わっていく有機的な集団にしたい。ジョージオーウェル『1984』の世界も思想警察によって人々が消されていく。あれもある意味、有機的だ。
 『1984』でさらに興味深いのは「テレスコープ」という監視機器だ。いたるところに取り付けられているので、まさにスマホだ。スマホに囲まれるのも落ち着かないし、しかし、スマホを手放しても落ち着かない。スマホに板挟みにされている。スマホをやめたいがいくら検索しても良い方法が出てこない。ほら、また囚われている。本だ。本を読んで、己の頭で考えるのだ。幸運なことに現世に思想警察はいない、はず。
 教職課程はどうも最短距離を歩かされている感じ。教育学を専攻しているとは言えないので、独学しようと思う。ただ、教育関連の本を手に取るのは直接的で気が進まない。試しに読んでみた本(宮下聡『中学生になったら』)は、ベネッセの漫画みたいだった。ちゃとした本を読もう。
 講義室を後にすると、大学の入り口に学生運動の名残みたいな立て看板が目に入る。戦争やめろだのなんだの主張したもので、僕はこういうのは好きだ。真っ当なことなのに、こういう手段が気に入らない人は必ずいる。無事で穏やかな時代なのか、知らないふりをしているだけなのか。それとも僕が尖っているのか。
 昭和に憧れがある。男が男らしくていい。こんな時代に言うことではないか。差別は良くない。同意する。しかし、少しうんざりしている。社会では、すぐ誰かに謝罪させるし、傍ら腐った集団が傷を舐め合っているし。池上彰『昭和の青春』。山川の日本史では時代の特徴がはっきりしていて実感されなかったが、どの時代も次の時代と地続きだと知った。変わる変わらないより、出来ることをするしかない。そうすれば変化する時代についていくこともない。あとから時代や社会が変わったことになる。
 普通なのか普通じゃないのか、グダグダ考えていると、朝になってしまった。カミュ『異邦人』を読んだ後のこと。インターネットを遮断しても聞こえてくる誰かの声にうろたえていた。うるさい、みんな黙れ。脳味噌が耳から垂れ、胃酸が逆流して喉を焼いた。ここは空気がきれいで静かで、いつも救われる。4時半ですでに明るい。
 僕の大学は富士山にずっと近いのに、裏山が邪魔で見えない。だから富士に近いという謳い文句は少し控えめである。だが富士の麓にいる気がするし、富士の使者もたまにこの地を訪れる。
 家でぐったりしているときに顕正会が信者をよこした。その婆さんがハキハキ喋るもんで、1時間くらい話に聞き入った。ふしぎと胡散臭くなかった。信仰はなくとも、米一粒に三柱の神が宿っていることは信じている。婆さんには、救いを求める心境にないと断ったが、無宗教とも言い切れない感じが、いつまでも心に雲をかけている。いまもずっと無気力である。太宰治『富嶽百景 走れメロス 他八編』を読んで、さらにずっしりと憂鬱。でも、これくらいがちょうど良いかもしれない。なにかに囚われている感じが、またいい。

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