見出し画像

ニュースのかんそう2

 今回朝日新聞で読んだニュースは、給食アレルギー事故から10年の記事だった。

 2012年の12月、東京都調布市の小学校で5年生の少女が給食後、アナフィラキシーショックで死亡した。

 彼女は気分が悪いと訴え、その後の14分間の先生の行動が生死を分けたという。
 エピペンは迷ったら打つとか、アナフィラキシーショックは血圧が下がって意識障害を引き起こすなど、いろいろ言われるが、そのことは今回言及しない。

 教育学を学ぶ身として無視するわけにはいかない問題は、先生たちの意識である。
 先生の役割は、学校によって大きく変わる。小中高、特別支援学校で考えればよくわかる。大きく影響するのは子供の自主性だろう。何においても自分で考えて行動することは必要である。その能力は長い時間をかけて得てゆく。そして、それと同時に体も大人に近づいてゆく。つまりは、自分のことを自分で守れるようになっていき、それに応じて先生が子供を守る必要性が発生するということだ。いうまでもないが、小学校1年生と高校3年生とでは先生の対応は異なるに違いない。

 この痛ましい事故は小学校で起きた。小学生とはどの学校よりも生徒の心身の成長に差がある。学年が上がるに従って手はかからなくなるが、教師として根底には子供を守るという意識を忘れてはならない。

 子供を守るためならためらいを見せないこと。背景にはきっと学校や保護者、教育委員会、そして社会、国があるのだろう。とても大きな存在だが、それに打ち勝つのが知識である。知らないことと対峙すれば、判断に余念が生まれる。ましてや、教師として子供を守り、なおかつ健全に育つ支援をする覚悟がなければ、いざとい時に動けない。

 教育学に身を置き、子供の明るい将来を望むなら、教育現場は目に安い願望だけで通用するほど単純じゃないと、覚悟するべきだ。

 キラキラした教師像は、自分に虚無感を与え、同時に子供を威圧する。仕事の量に絶望し、工夫する頭も働かなければ、教師としての威厳を保つべく、子供に威圧的になる。

 現代社会の問題は教育に帰着する。社会に目を向けてこそ、教育学が有意義に学べる。教師のすべきことは社会の顔をうかがうことではなくて、社会のツラを睨むことだ。社会の不純な動向から子どもを守るため、社会の負の面に対抗する方法と、正の面に安住する方法を教えるのだ。

 まったく大学生の戯言ほかないのだが、僕自身の決意として、ここに残すに至る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?