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山本紀夫「ジャガイモのきた道」岩波新書

「イモ」という言葉にはどこか田舎臭さとか未熟さを感じさせるが、確かにジャガイモという作物は文明とは無関係な植物として捉えられてきた。事実考古学では稲作、トウモロコシなどの穀物が文明を産んだ、というのが常識になっている。ところが、このジャガイモの起源を辿っていくとそうでもないようなのだ。

ジャガイモの栽培化は紀元前5000年の中央アンデスがルーツだとされている。アンデスには今も標高3200mの位置に紀元前800年頃立てられたであろうチャビン・デ・ワンタル神殿(世界遺産)など多くの遺跡が残されているが、従来の通説であった「トウモロコシ主食説」には明らかに疑問が残る。植物学者としての視点から分析すると、この標高で安全的に栽培可能な物としてはジャガイモ以外考えられないのだ。つまり従来の「イモ農耕=文明を生まない」という通説はこのアンデス文明には通用しないというのである。

ジャガイモは元々、小粒で毒性の強い危険な植物であったが、長い歴史の中で、「毒抜き」の技術を発展させ、「毒を抜いた種」を選定しながらより安全な食物としてのジャガイモを作りだしてきた。現在も中央アンデスに見られる「チューニョ」(乾燥イモ)は長期にわたって貯蔵できる食物として彼らの食生活を支えている。インカ文明を支えた農業もトウモロコシ農耕だというのが通説であったが、これは低地部に限った話で、やはり高地部ではイモ農耕が中心だったことに疑いの余地はない。

筆者はこれについて現地での40年に渡るフォールドワークだけでなく、インカ帝国を滅ぼしたスペインのピサロらが残した文献からも立証している。スペインがヨーロッパに伝えたジャガイモは当初「聖書に出ていない悪魔の植物」として敬遠されていたが、その植生の強さから、飢饉時の代用品として重宝され、特にヨーロッパ内の領土拡張戦争が起こる度にその需要が増していった。飢饉と戦争がジャガイモの存在価値を高めたのである。特に虐げられた地域(例えばアイルランド)では穀物栽培が十分に出来なかったこともあって、この雑草種のように強くて生産性の高いジャガイモがあっという間に定着していった。

その後、アジアにもその種は伝えられ、ヒマラヤなどの高地地域には主食としてのステータスを確立していくに至る。日本でも当初は1598年オランダ船によって長崎に伝えられて以降(これも一説に過ぎない)、特に植生に適した北海道や東北地域で爆発的に栽培が拡大し、デンプン生産などにもつながっていった。

今後の世界の食糧問題を考えた場合、このジャガイモの役割は間違いなく拡大していくと思われるが、残念なことに国際ポテトセンターのようなジャガイモの世界戦略の中心を担う組織に日本人研究者は一人もいない、その状態が10年以上も続いている(2008年現在)ということだ。この背景にはやはり人類歴史に果たしてきたジャガイモの役割をもっと評価し、未来における役割を接客的に考える機会にして欲しいという目的をもって本書は書かれている。

植物学者、民族学者としての姿勢は勿論、研究の緻密さ、誠実さ、すべてにおいて頭の下がる一冊だ。生涯にわたる研究を渾身の一冊にまとめ上げた氏の仕事に敬服すると同時に、ジャガイモに対する認識を新たにさせられた。

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