見出し画像

荻耿介「イモータル」中公文庫

もともとの題名は「不滅の書」であったらしい。「不滅の書」がさすものは「智慧の書」(=インドの古典「ウパニシャッド」)。インドに渡った兄はこの書だけを残して15年前に消息を絶った。どうやらこの書にいろいろな秘密が込められているらしい。主人公はこの「智慧の書」を手にとるようになってから兄の亡霊をみるようになる。兄は営業職で人間関係などに苦しむ主人公に「堂々としていろ」と語る。「急ぐにしても荘重に、手っ取り早さよりは、大きな目標を掲げそこに向かって苦しんで生きでみろ!」ということをAllegro maestoso(大きな楽章の息の長い=遠い目標に向かって高貴な努力を重ね、ついにその目標に到達した有様)、Adagio(ゆったししたテンポ=ちっぽけな幸福など相手にしない大いなる貴い努力の苦悩)という表現で語った。この小説は史実に基づきながらも時空をこえて「智慧の書」を守ろうとしてきた人々が描かれている。「ウパニシャッド」はヒンドゥ教の根本聖典。これをムガール帝国の皇子ダーラー・シコーがペルシャ語に翻訳したが、「神の前では誰もが平等」という思想に反発した偏狭なイスラム教主義者たちによって政争敗北、処刑という悲惨な結果をもたらす。その後、このペルシャ語訳をフランス革命真っ只中のパリでデュペロンという学者が「命がけで」ラテン語に翻訳する。その後、ドイツの若き哲学者ショーペンハウアーが代表作「意志と表象としての世界」として結実させる。その著作は日本人によって日本語訳が施され、多くの青年知識層に影響を与えた。

「ウパニシャッド」ではすべての存在を包括する宇宙の原理をブラフマンとし、ここに立っている自分や足元の草一つ一つをアートマンと名づけた。その二つは渾然一体の体をなし、「梵我一如」という言葉で表される。世界がどんなに絡み合い、困難であったとしても、「違っていて当然」なのだから「解きほぐせばいい」。深刻になりすぎず「涼しく」そこに向かっていけば着地点は見えてくる。分裂の放置は更なる分裂を生む。しかしそれは自分にもオッカムの刃の如く返ってくる・・。主人公の兄はムガール帝国時代に偏狭なイスラム主義の象徴として立てられたタージマハ-ル、差別主義への怨念を根としたモスク破壊事件に巻き込まれて死んだ。「智慧の書」が目指す道は「狭き門」なのだ。

主人公はこの壮大な物語によって一つの光を見出す。

「堂々としていろ」

「丁寧に、寛容に、涼しく解きほぐせばいい」

兄の言葉が響き続ける。


一冊の小説のなかに実に壮大な物語が重層的にこめられていた。面白い一冊に出会った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?