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【2500文字くらい】薄っぺらい話【ほんとペラペラな話】

薄っぺらい話

少し涼しくなってきて、気持ちいい空気のせいか脳に隙間が生まれてしまった。暗い夜道を歩きながらあなたと共に過ごしていた日々の事が蘇る。そこの角を曲がったらあなたがいてくれたらいいのに、などと絶対にありえない想像をしてしまう。ため息混じりに、そんなことはあるわけないんだと自分に強く言い聞かせた。イヤホンからはパッヘルベルが流れている。その極めて繊細な音色からか何故か涙がこぼれた。悲しいのか切ないのか、その正体はわからない。しかし涙が溢れて止まらないのだ。物悲しいというか心細いというか。こうやってふとした瞬間にあなたがいない事に気づき、これからの私の人生にもあなたがいない事を自覚してしまう。そんなことではいけないと考えていても、聞き慣れたクラシックが頭に響けば、あなたと一緒に聞いた日々の思い出が流れ溢れてくる。もうここに膝をついてしまいたい。少し冷たい風が吹いて、私の髪が靡くけれど、涙で張り付いた髪は顔にこびり付いて離れず気化熱でその部分だけが余計に冷たく思えた。ここで大きな声で涙を流したら私はこの思い出に線を引く事ができるのだろうかと一人ぼんやりと考えてみる。夏の終わりごろに、孤独が私を蝕み犯す。それから逃げる術もなく、頭を振り、かき乱してさえしてしまうほどの侘しさが私をそっと強く抱きしめるのだった。

ただの気まぐれで外を歩こうと思っただけだった。ただ前を向いて生きていきたいという今の私を、あなたという思い出の骸が後ろからきつく抱擁する。その温もりは幻覚だとわかっているのに身を預けないではいられない。もう一度、もう一度あなたの温もりを感じることができれば私はもうどうなってもいいとさえ思う。音もなく涙をこぼしながら公園のベンチに腰を掛ける。頭を抱えてしばらくすれば、目から頬、あごを伝った涙が地面に落ちた。空には青白い月が淡い光を放っている。優しいその光は私の涙を乾かすには至らない。しかし音が消えた夜の世界で凛と輝くその姿は私に冷静さを取り戻させた。冷静になった頭がやっと動き始める。あなたに依存していた日々はとても居心地がよかった。それがとても危険な事だという事がわかりながらも、私はあなたの虜になった。笑顔、仕草、言葉、何もかもが愛おしくて苦しくて仕方がなかったことを昨日のこと様に思い出す。時が経つにつれて存在自体が神々しく感じられるようになり、私はあなたに縋って生きるしか道はもう残されていなかった。だからあなたがいなくなったことで、生きる道が、生きて行けばいい方向が見当たらなくなった。もう何もわからない。でもわからないでいいと思う。なぜならばこんな抜け殻の様になった状態の今でも、私が人を愛する事ができたという事が本当に素晴らしいと思えるからだ。愛情があれば日常には花が咲き乱れ、夜伽では深慮に力強く水が流れる。これほど広い世界の中で、私の前に広がるあなたという世界があれば何の不自由もなく生きていけるほどなのだから。あなたが何も言わずに消えてしまってからもうどのくらいの時間が経ったのだろうか。もうあなたにはきっと会う事は無いのだと改めて認識する。ベンチから腰を上げやっと止まった最後の涙の一粒を指で拭った。公園の出口に差し掛かると月が私を見下ろしている事に気づき、さっきのお礼として月に向かって中指を立てた。

私はどうやって生きていこうか。少し冷たい風が首元を笑いながら不愉快に駆け抜けていく。これから季節は夏から秋、秋から冬へと変化していく。涼しい空気を感じたことで、これほどまでに涙を流し、心が荒んでしまうのであれば、これからの季節を私は越えていけるのだろうかと不安になった。どうして人間はこうも弱くなってしまう生き物なのだろう。はるか昔から、それこそまだ猿の時代から人間は進化を続けてきた。生存本能や危険察知といった根本的な本能は脳という媒体を通して全人類の共通項として機能している。食欲や性欲、睡眠欲といった欲求についても同様だ。すべての人間が基本的に必ず有していると言える機能だというのに、それが満たされる、満たされないという個体が生じる事は人類が辿っている進化の過程において大きな欠陥そのものだと言えるのではないだろうか。それに人間が発する言葉だって、元はと言えば狩猟に利用する意思疎通の術だったはず。決して今の様にお互いの腹の内を探り合うような不透明な媒介ではなく、ただ生きる為だけに必要な手段であったはずだ。そして欲を叶えようとすれば言葉を巧みに操る事は不可欠であるが、その言葉は真実である必要はなく、嘘にまみれたものでも十分に事が足りる。形さえ整ってさえいれば言葉という不確かなものでも信じるに値してしまう危うい手段となる。心が籠っているのかどうかなど、もはや確認のしようがない次元となっているのだから。もはや私たちの言動は既に信用できるものではなくなってしまっていると言える。そういった不確かなサインが飛び交うこの世界は私が一人で生きるにはやはり地獄に等しい空間だと一しきり考えを巡らせ、改めて確信した。

やはり私にはあなたがいなければならない。あなたの起こした行動で感じる感触や、あなたが発する声を聞き取る聴力、あなたが浮かべる笑顔を認識する視覚といった、それぞれの感覚をあなたで満たすことができなければ何を信頼してもいいかわからないこんな世界で私は生きていける気がしない。寂しい。侘しくてたまらない。もうあなたが発しているすべての事が嘘だとしても私は構わない。盲目的にあなたを愛する事で私はこれからの季節を乗り越えていく事ができる。あなたに愛して欲しいなんて言わないから私の所へ戻ってきてください。

私はおぼつかない足取りで墓地へ向かう。小さくなったあなたを最後に見た場所はここだった。冷たくなった墓石に手を添えるとあの日のあなたと同じくらいに冷たかった。どれだけきつく抱きしめても抱きしめ返してくれることもないし、温もりを味わう事も出来ない。どうして。私はあなたと生きていきたかったのに。あなたが言った形だけが整った嘘かもしれない「愛してる」その言葉だけを信じて生きていこうと誓っていたのに。

「一人にしないで」

涙がまた止まらなくなった。

終わり
©yasu2023


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