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【エゴ】偏りを海に浸ける【サドマゾ】

偏りを海に浸ける

夜の浜辺を僕達は歩く。割れてしまった子供用の手鏡に、月がいくつも映り込んでいる。なんでこんな見え方になるんだろうか。この世には不思議でわからないことがありすぎる。寄せては返す波は時折大きく砂浜を侵食し、汀に転がる貝殻がカラカラと響かせる。ここ最近、目の前で次から次へと価値観が通り抜けていくのを見続けていたからか、僕は、僕というモノが何だかよくわからなくなっていた。

海は人間の涙でできているんだよ。君は言う。悲しみや悔しさ喜びといった涙全てがこの星の海となっているんだと。
本当かい?じゃあ今泣いている君の涙も、海へと流れていくという事なのか?どうかしら?もしかしたらそうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ。いや、そうじゃないかもしれないなら、海が人間の涙だという話は違うじゃないか。今君が泣いている理由はなぜだったか。ああそうだ消えてしまいたいと言っていたんだ。わかる。わかるよその気持ち。僕もきっとそうだから。

足元をみると、さっきの割れた鏡に、沢山の僕が映っている。僕は僕がどれが誰で僕なのかがわからない。あぁそうだ僕はそういう人間だった。どこにでも属する能力はあるし、それなりに人間関係もある。何もかもを無難に過ごすことはそれほど苦ではない。けれど僕は絶えず不安が絡まっていて、真贋区別のつかない蛇が首に纏わりついている。耳元では僕の体と、蛇の鱗が擦れ合いシュルシュルと音を立てている。本当は何もいないはずなのに、恐怖と、不安が、そこにいるはずもない蛇を生み出しているんだと思う。目元では蛇が小さな黒い瞳で僕を見据え、舌をチロチロと出し入れをしている。背中や脇、首筋からは冷たい嫌な汗が伝う。恐ろしくて歯がカチカチと鳴り、心臓がバクバクと音を立てる。一匹だったはずの蛇は数多の蛇となり、シュルシュルと、僕の体を這い回っていく。ザラザラとした鱗が冷や汗の上で滑らかに蠢くのが気持ちが悪い。1匹の蛇が僕の首元から、自らの首をもたげて僕と相対する格好になった。小さな黒目が僕を見つめている。相変わらず舌をチロチロと出していると思っていたら、急に顔を目掛けて飛びかかってくる。驚いて頭を引いたが、ひどくゆっくりと蛇の2本の牙と喉の奥が近づいて来た。

……したの?…ぇ。どうし…ねぇ!?
遠くから声が聞こえる。蛇がいざ噛みつこうとしたその瞬間に僕の意識は戻った。ねぇ!どうしたのよ!急にボーッとして何も話さなくなって!どこを見ているのかもわからないし!…あぁ、すまない。ちょっとボーッとしてしまった。そうだ消えてしまいたいという気持ちだったね。何となくわかるよ。君とは理由が違うに決まっているけど、僕もそう思う事がある。例えばだ。今そこに割れた鏡が落ちているだろ?僕はそこに写り込んだ沢山の僕を見て消えてしまいたくなったよ。何人もの僕が映っているというのに、その全てが違うんだから。ん?違うって?何が違うの?鏡に映り込んでいるのは僕じゃないんだ。あなた何を言っているの?君の笑顔が少し歪んだ気がする。何だか眠くなってきたけれど。寝たら明日が来てしまうんだなぁとぼんやり思った。

あっちをみてごらんよ。僕は松の木の根本にいる黒猫を指差す。月明かりに照らされている猫は陰影がぼんやりしている。しかし、目を凝らせば見えないというわけではない。きっと黒猫がネズミを捕まえたのだろう。獲物の首根っこを咥えてこちらを見ている。その姿はどこか得意気だった。黒猫の口の端から血が滴り落ちているかもしれない。

あの黒猫を見て君は何を思う?獲物を取る事ができた黒猫が喜んでいると思うかい?それとも狩られてしまったネズミが可哀想だと思うかい?僕はね、どちらかというと捕まってしまったネズミの気分になるんだ。ああ。圧倒的な力の前には、何も抗うことはできないんだ。ただ踏み躙られて、終わる。理不尽だと声を上げることすらできずに。君は黙っている。先ほどよりも顔が青白く見えるのは月明かりのせいかもしれない。

僕はね。あのネズミが僕であればよかったと思うんだ。そうだろう?あのネズミは圧倒的な力になす術もなく生きる事を切り取られたんだ。きっと怖かっただろうね。なぜ俺が、いや私かもしれないな。まぁそんなことはどうでもいいんだ。どうして俺なんだと思ったろうね。でも誰も彼もそんな事を気にしてくれるわけもない。ただ頭の中で巡るなぜなぜなぜなぜなぜ?を、死ぬ瞬間まで思い続けるんだ。圧倒的な暴力に屈するとはそういうことなんだと思う。そんな事を考えた所でどうにもならないんだけどね。僕はそれが悲しいよ。消えてしまいたい僕が、これからどれだけの死にたくない命とすれ違わないといけないのだろう。そう思うと生きているのが申し訳なくなってくるんだ。君に僕の話をしていると、自らが侘しくて涙が出てきてしまっていた。

先ほどまで青ざめていた君の頬が紅潮している。なぜだろう。心無しか薄っすらと微笑んでいる様にも見える。君は一体何を考えているんだ?さっきまで消えてしまいたいと言っていた君はどこへ行ったんだ?あぁ。あなたってなんて素敵な人なの?きっとその涙は海に流れていくわ。

私、今とても興奮しているの。これまで何人もの男を見てきた。さっき鏡を見ながら蛇がどうとかブツブツと独り言を言っていたから、美しいあなたが、実はただのイかれた人間なのかと思って驚いてしまったけれど。今は違う。あなたは私と出会うべくして出会ったのよ。こちらへいらっしゃい?僕は君に手を引かれる。私はあなたと共に波打ち際から海へと進み、海水に足が取られる所まで進んだ。水の高さが僕の膝くらいまでになった所で君は立ち止まる。抵抗してはいけないわよ?わかったと僕はいう。あなたのそういう素直な所、好きよ?君に好きだと言われると舞い上がってしまいそうだ。いい子。じゃあそこに跪きなさい。僕は何も言わず海水に片膝をつける。その姿は私をこれ以上にないほどに昂揚させた。

月を背にしている私が影となっているから、あなたの顔がよく見えない。なんて。なんてもどかしいんだろう。早くあなたの表情が見てみたいと思った。月を背負った君の表情は、跪いている僕には推し量る事ができない。今君は僕をどんな表情で見下ろしているんだろうと思った。ねぇ?君が僕に声を掛ける。どうしたんだい?あなたがそう返事をする。今どんな気分なの?ん、どんなだって?最高の気分に決まっているじゃないか。そう言ってあなたはまろやかに笑った。僕は海水で濡れている。1人でこんな事をしていたらただの気が触れた奴だけど、そんな滑稽な姿を君は見ている。その事実のおかげで何も気にならないし、これから何が起こるのだろうかと楽しみで仕方ない。ああ。あなたの存在は本当に堪らない。私の心を震わせて止まないの。とても、とても愛おしいというのに、あなたの今のその惨めな姿と思考回路が私を駆り立てる。もっと汚らわしい姿が見たいと。あなたのどんな姿が1番に惨めかしら。ああもう。想像するだけで濡れてしまいそう。

私は跪いているあなたに一歩近づくと、腰をかがめて顔を覗き込む。髪の毛が顔に流れてきて、あなたの顔がよく見えなくなった。その髪を耳にかけ、顔を側まで寄せていく。途中で服の首元の隙間から、胸元が見えたかもしれない。君の香りがする。そう思った。これはなんの匂いだったんだろうと思う。だった?何故過去形なんだろう?まぁそれはどうでもいいかと思った。君の服の首元からは大きくはない胸を覗くことができて、いい眺めだと思う。

聞いてくれるかい?どうしたの?もう消えてしまいたい、どうにでもなれ。そう思っていたとしても、どうやら性欲ってものは尽きないらしい。いや、それはもしかしたら僕が生きたいと思っているんだろうか?こんなに近くに君がいると思うと、何故か、堪らない。あなたなら知っていると思うけど、人間死ぬ直前になると性欲が増すって話があるわよね?それじゃない?あなたは今、その内自分が死ぬと思っているのよ。そうなのかな?全然そんな事は考えてはいないけど。そう。それじゃあ私にはわからないわ?だってあなたじゃないもの。確かに。君の言う通りだ。

他愛の無い話をしている間も、波が寄せては返している。ザザァ、ザブンと響く音が聞こえる。時折チャプンと海水が跳ねた。君の顔は相変わらずすぐ側にある。僕が首を少し上げて、君が少しだけ屈めば唇が触れ合うであろうもどかしい距離感だった。潮が満ちてきているのだろう。跪いていた僕の下半身はさっきよりも海に浸かっている。今日が冬じゃなくて良かった。もし冬だったとしたらきっと君が凍えてしまうだろうし、そもそも君に手を引かれて海に跪く事もなかっただろうから。君を抱きしめたいと思って手を伸ばしかける。

そう思った時、僕の右の頬に鈍い衝撃が走った。何が起こったというのだろう。君の顔に合わせていた焦点が大きくズレる。ああそうか、君に殴られたんだ。そのまま海に左半身が飛び込んでいった。あれ?そう言えば君は左利きだったか?そんなことすら僕は知らなかったのか?海水が鼻や口内に入り、頬に受けた衝撃で口の中は塩と鉄の味がする。鼻に水が入った痛みは不愉快だったが、あなたが僕に与えてくれた傷が僕を満たしてくれる。あなた今、私を抱き締めたいと思ったでしょう?まいったな。僕の考えている事がわかるのかい?えぇだいたいわかるわよ。当ててあげましょうか?本当かい?楽しみだな。

西陽を見ると死にたくなるでしょう?うん。眠れなくて、朝陽が登っても死にたくなるでしょう?うん。テレビのニュースが楽しい話題を流していると死にたくなるわよね?うん。事件や事故が起こった事を聞くと死にたくなるでしょうね。うん。誰かが死んだと思うと、どのような気持ちで死んでいったのかと思って怖くてたまらないと思うわ。そうなんだよ。何もかもがあなたを捻り潰そうと機会を伺っていると思っている。うん。何を見て何を思えば自分は生きていきたい、生きていってもいいと許せるのかがわからないでしょう?驚いたな、全くその通りだ!何でそこまで僕のことがわかるんだ?簡単よ。私もそう思っているから。そうか君もだったか。確かに、確かにそうだね。君はよく泣いている。もしかしたらこの星の海は君の涙でできているかもしれないな。再度僕の頬に衝撃が走る。頬を君に殴られたことで勢いよく首が振れ、ポキリと音を立てた。口の中がまた切れたようだ。少し意識が朦朧としているのかもしれない。海に倒れ込むことは無かったが右手を体を支えなければ、その場に倒れこんでしまいそうだった。

少しの間、沈黙が続く。すると急に僕の体が引っ張られ君のそれほど豊かではない上半身に抱きしめられる。何事かと思っていたが、それでも女性特有の華奢で柔らかな体は僕を興奮させるには充分すぎた。キツく抱き締められた上で、君の匂いと体温に包まれると、僕はこのまま死んでしまいたいと思った。すると君は腕の力を抜き、少しだけ体を話す。どうしたのだろうと君を見上げると、僕の頬に手を添え、唇に唇を重ねてくる。

この上ない快感だと思った。君が触れているというだけで気が狂いそうだというのに。舌がねじ込まれたことで僕は果てた。腰から下が水の中にあるからか、夢精をした時のような気持ち悪さが広がることはなかった。脈動する僕をたっぷりと味わった君は、唇を離すと僕の頬に平手を打った。手根部がぶつかり唇が割れる。君は再び僕の顔を両手で包み込むと、割れた唇や、こぼれた血液に舌を這わせてくる。恐れ多い。君が僕のように不浄で下賎なものの血液を啜るなんて。こんな事があってはならない。君が穢れてしまう。そう思っているのに君が僕に施す行為にも抗えない。もうやめてくれ。もうやめてくれ。嘘でも本当でもない言葉が僕の口から勝手にこぼれ落ちていく。その言葉を嬉しそうに聞く君。そして、僕と同じように下半身を海に浸け、しばらくの間、血が溢れる唇を食み続けた。そっと顔を離すと君の唇や口周りは僕の血液で赤く染まっている。既に乾き始めた部分は黒々としていて、肉食動物が草食動物を捕食するシーンを連想させた。その姿をみて僕は先ほど見た、黒猫に捕えられたネズミを思い出す。あのネズミは今どうなってしまったのだろうと思うけれど、その答えはきっとあの黒猫しか知らない。

私ね。あなたに向かって最上級の誠意を込めて伝えよう思った。好きよ?あなたの事がたまらなく好きなの。その想いに感極まって涙が流れた。僕も君のことが好きだ。あなたのその言葉が私の血潮となり今にも胸が張り裂けそうになる。あぁもう。この気持ちをどう表現して、どうあなたに伝えたらいいの?あなたの首に両手を添える。あなたの常人では大抵及びつく事がない悩みに身を滅ぼしそうな姿がたまらない。割れた鏡に映った僕はどれが本当の僕なんだろうって?どれもあなたよ。各々が各々の尋常ではない悩みを創造するかけがえの無い存在なの。わかる?あなたは素晴らしいの。黒猫に捕えられたネズミの気持ちを考えられる優しい人なの。だから今私達が浸かっている海には、あなたが流してきた涙が絶対に流れている。そしてこれだけはわかってちょうだい?あなたが居るから私は生きられるの。あなたが居なくなってしまうかもしれない未来が怖くて涙が出るの。ねぇ私を置いていかないでね?約束よ?締める力をゆっくりと強くしていくと、首に通る大きな血管の脈動を両手にはっきりと感じる。あなたからはヒューヒューと、どこから響かせているか分からない音が漏れている。愛しいあなたに、私の気持ちを最大限に伝える術を、私は壊すことでしか表現できない。あなたには今の私がどう見えているのかしら?舌をチロチロと出している蛇に見える?それともネズミを捕らえた黒猫に見える?あなたは大きく目を見開き、口から泡を吹き始めた。あぁ…あなたがいなくなってしまう。悲しい。悲しくて背筋が冷える。でも私は、もっとあなたに愛しているを伝えたいの。

君が僕の首に手をかけている。細い指が僕の頸動脈を的確に締め上げる。首元から肩に浮かぶ鎖骨は、指を引っ掛けて引っ張れば折れそうな程細く華奢に見えた。薄く笑みを浮かべる姿は、妖しく侘しそうに見える。意識が途切れ途切れになる程に苦しいけれど、君が与えてくれる痛みや苦しみは、僕にとってはかけがえの無い快楽と言える。だから甘んじて受け入れよう。ただ僕は思うんだ。今ここで君がくれる歪な気持ちを全て受け止めたら、僕は死んでしまうだろう。それは僕にとって至上の幸福に違いないけど、そうすると君を1人にすることになる。『奪う』事を至上の快楽とする君は、蛇が弱いものを睨めつけ威嚇したり、ネズミを捕らえる黒猫のようだったが、実は失くす事を1番恐れている人間なはずだ。手に力を込めれば込めるほど今の君は満ち足りていくだろうが、失くした瞬間に飢渇してしまうのだろう。だから今も君は、消えてしまいたいと言いながら涙を流している。そしてありがとう、ごめんなさい、愛している。と、うわ言のように呟きながら、苦しむ僕に唇を重ねた。

僕達は。私達は。
愛しているから壊し、涙を流す。
愛しているから壊され、涙を流す。
需要と供給が整っている様に思えなくもないが、実際は、自分の欲望を優先しているだけに過ぎない。お互いを労わりながら愛し続けて生きていくという道は無く、結局は自分達の欲を優先する。とても近くを歩いているように思えるけれど、実際は絶対に交わることの方向を目指しているか、、近づく事ができるわけがなかった。そんな事を思いながら、君の、あなたの涙が海に還りますようにと、祈った。

ありがとう。愛しているよ。
ええ、私もよ。

あなたの首から両手を離すと、その体は無抵抗に、パシャリと海へとうつ伏せに倒れ込んだ。もうあなたは誰ともすれ違うことはないし、起き上がることもない。悩み、苦しむことから開放されたあなたは、寄せては返す波に力なく揺られていた。本当にあなたの事が大切だから、あなたに見えている世界と同じ色が見られないかと思っていた。でも、それは叶わない。私には私の瞳に映る世界しか愛せないし、その光景にあなたがいて、それを壊すことでし満たされない事がわかっていたから。

海に顔をつけているあなたが苦しくないように、足蹴にしてひっくり返す。見開かれた目が私の事を見ているような気がし、そっと瞼を下げると、口元が満足気に笑っているからか、優しく微笑んでいるように見えた。

唇を重ねる。

まだあなたは温かかった。

終わり

©︎yasu2024


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