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【10,000字あります】炎 リボン 朽ちた城【イヤミスを書きたかった】

炎 リボン 朽ちた城

アコーディオンの音色が響いている。なんとなく物憂げで、胸が締め付けられた。どこかで誰かが演奏をしているんだろう。最近巷では子供達が姿を消すという事件が起こっている。そんな時なのだから、できるならもう少し明るく、心が弾むような曲を演じてほしいと思った。蝋燭の灯りが少しだけ揺れると、朽ち果てた古城の壁面に、自らの姿がゆらめく影になる。

人形師の青年は幼児サイズくらいのドレスを針と糸を使って縫い合わせている。その手先はとても器用で、寸分違わぬ糸の運びは機械を彷彿とさせるほどだった。縫い終わりを玉止めし、余った糸を歯でぷつりと千切る。ドレスの両肩を持ち、目の前でその全体を確認する。いつの間にかほつれてしまったドレスのウエストは、どこからどう見ても新品の様に仕上がっていた。

青年は満足そうにニヤリと笑う。時間を忘れて作業に没頭していたからか、ひどく肩が凝っている。グルリと首や肩を回すと、そこら中の骨がボキボキと音を立てた。服を着ずに、ビスクボディを剥き出しにしたビスクドールが『早く私に服を着せてくれないかしら』と言い出しそうにガラスの瞳の視線で青年を射抜く。「ごめんよ。アン。遅くなってしまった」アンと呼ばれたビスクドールは茜色をしたスクエアネックで、プリンセスラインのドレスを着せられる。アンニュイな、大人びた表情のビスクドールは、クルクルと可愛らしく巻いた金色の髪がよく似合う。しかし、限りなくまっすぐな黒髪もきっと似合うだろうと思った。そうだ次は黒い髪を探しに行ってもいいかもしれない。それがいい。青年は1人でクスクスと笑う。

青年が帰宅すると、そこには愛する妻がいる。

ある日。冷たい雨が急に降りだした。傘が有っても意味が無いくらいの雨に、仕事場から濡れて帰ろうかとうんざりしながら青年は店を出ようとする。その時、店先に雨で濡れた女性がいた。その女性は大人を模したビスクドールのようだった。濡れた髪を無造作にリボンで結ったその姿はただ美しく、青年が何も言葉を発する事ができないでいたのも仕方のない話だった。降り続けた雨はその勢いを増している。そんな中で女性はこの店先にたどり着いたのだろう。軽く頭を下げる女性に青年はやっとの思いで声をかける。「傘をお貸ししましょうか?それとも、雨が小降りになるまで中で休んで行きますか?」女性はその言葉に驚きそのどちらも断った。しかし、止みそうにない雨と、寒さに震える女性を置いて帰ることもできない。青年がそう言うと、女性は寒さに耐えかねたのか、申し訳無さそうに首を縦に振ったのだった。

店内にはたくさんのビスクドールが並んでいる。青年は暖炉に火を点け、女性をその前に座らせた。そして、店内奥の作業場にあった、人形の服を作る見本の白いワンピースと薄っぺらな布切れを女性に差し出す。「サイズが合うかはわかりませんが。あとそれで体をお拭きになってください」女性の美しさに目を見ること難儀している青年はそれだけ言うと、女性を置いて作業場に入ろうとする。「あの、お手数をおかけして、本当に申し訳ありません、ありがとうございます!」女性がそう声をかけ、頭を下げた。「構いませんよ」とつられて青年も頭を下げると、女性のスカートが泥で汚れ、裾がほつれているのを見つける。「スカート、裾がほつれてますね」青年がそう言うと、女性は今それに気づいたのだろう。「本当だ。お気に入りなのに」と呟くと「どうせこの雨もしばらく止みそうにありませんし、着替えてあたたまってください。その間に繕いますので」「そんな、雨宿りや着替えまでさせてもらって…そこまでしていただくなんて…」そう言い淀んでいる。「無理に直させてくれとは言いませんよ。ただ時間もありますし」問答をいくつか交わした後、ワンピースに着替えた女性の前で、青年はスカートを繕うことにした。タオルでほつれた部分の水分をとる。器用な指先でスカートが繕われていく様を女性はジッと見つめていた。ものの数分で元通りになると青年はニコリと笑い「直りましたよ」と女性に告げる。指先の精緻な動きに見入っていた女性は、その声にハッと我に帰ると礼を言うのも忘れて「すごいですね」と、感嘆の声を上げた。目を丸くし、真っ直ぐに気持ちを伝える女性に青年は好感を持った。「また雨が降った時にはここで雨宿りでもして行ってください。服のお直しも承りますよ?」そういうと、女性は少し照れたように「まだ家に直さないといけない服はあったかしら?」と答え、2人は笑い合った。外の雨は止み、空にはキレイな満月が優しく世界を照らしている。一緒に店を出ると、白いワンピースを着た女性に月明かりが注ぎ、神秘的な美しさを醸しだす。「このワンピース、また洗ってお返ししますね」月明かりを背にしていて表情よく見えなかったが、その影のシルエットがビスクドールの様に見えた。「またいつでもいいですよ」青年がそういうと「本当にありがとうございました」と笑顔で応え、女性はお店を後にした。それから数日、青年はボンヤリとその女性の事を思っていた。そして、それから少しして女性は、服を返しにお店にやって来ることになる。お店の白いワンピースと青年への恋心を持って。青年はそれらを受け取り、程なくして2人は結ばれたのだった。

「おかえりなさい!」

玄関を開けて家の中に入ると、柔らかい笑顔を浮かべた妻が出迎える。胸元の少し開いたワンピースに、ポニーテールに結った栗色の髪を、ふわふわと踊らせていた。真っ赤なリボンがとてもよく似合うなと思った。「遅かったわね」フワリと青年の頬に手を添え、そのままキスをする。そして朝から帰宅までの時間を埋め合わせるかのように、お互いにきつく抱きしめ合った。青年は荷物を自室に放り込むと少し遅めの夕食の席に着いた。「最近ドールの人気が凄くてね。注文がひっきりなしに入るものだから大変だよ」2人で食事をしながら軽くワインを飲む。青年が話す1日を楽しそうに妻は聞く。「物憂げなアコーディオンを聴きながら仕事をするよりも、明るい曲を聴きながら働きたいよ」と青年は愚痴りながら今日聴こえてきた曲を鼻歌で歌う。妻は「本当ね」と言いながらクスクスと笑った。ワインのせいだろうか?妻の頬が少し紅潮し、瞳は潤んでいる。熱っぽい視線を青年に送ると、それに気づいた青年は、席を立ち、椅子に座ったままの妻を後ろから抱きしめる。妻のうなじに向かって唇を一度だけ落とすと、どこかでアコーディオンの音が聞こえた気がした。

青年は妻の栗色の髪に口づけをしていく。妻は少しのけぞり青年の首に腕を回すと、強引に自らの唇に青年の唇を引き寄せる。啄むようにお互いを愛でる口づけは程なくして舌が絡み合うようになった。呼吸も徐々に荒くなっていく。妻が舌を強引に捩じ込めば、その舌を受ける青年は、緩くその舌を受け入れる。舌を唇で吸い、唇を舌で舐め、唇と唇で存在を確かめ合う。愛おしいという感情に夢中になると、青年は妻の胸元に手を滑り込ませ、乳房を揉んだ。妻はくぐもった声をあげると、体をピクリと跳ねさせる。妻は唇を離すことなく椅子から立ち上がると、青年の体に抱きつき、掻きむしるように夢中で手を這わせた。抱擁と口づけを交わしながら2人はベッドルームへ向かう。早く。早くお互いの温もりを肌で感じたい。早まる気持ちを辛うじて自制しながら、お互いが身にまとっている衣服を剥ぎ取っていき、ベッドに辿り着く頃には2人とも下着だけとなっていた。青年が妻をベッドに押し倒すと下着を剥ぎ取り、その体に舌を這わせていく。妻の喘ぎ声は核心に近くなればなるほど艶やかになり、いざ舌が核心に触れ、舌や指での奉仕が続くと、妻の体はガクガクと揺れ、大きな喘ぎ声が響いた。青年の唇が自分の口元に無いことが寂しくもあるが、青年が与えてくれる肉体的な快感に妻は抗うことはできなかった。

夢中で青年を咥える妻の頭を優しく撫でる。口内はとても暖かい。時に激しく、時に切なさを覚えるほどに緩やかに抽送が繰り返される。快感に身を委ねてしまいそうになりながらも、理性がそれを阻む。半ば強引に妻を自分の下半身から引き上げ、仰向けにする。大きく開かせた脚の中心には、濡れて怪しく光る快感の入り口がぽっかりと開いていた。屹立した自分自身をその中心に当てがうと、妻は甘い声を上げた。ゆっくりと妻の体の中へと侵入していく。中を押し広げながら、柔らかな内臓に包まれると、猛る欲望のままに腰を動かしたくなった。しかし青年は、妻をそのような一瞬の快楽のために扱いたくなかった。互いに慈しみ、腰と腰を打ち、擦り合わせる事で、肌と肌の温もりを確かめ合い、お互いの存在を確かめたかった。妻の脚は青年を更に奥へと導こうとし、下半身に絡みつく。妻が青年の背中に妻を立て、口づけを交わせば、蕩合う下半身と唇が本当に溶けてしまって、2人が1つになった感覚になった。夢中でお互いを求め合っている。お互いの全てを知りたくて、曝け出したくて、体勢を少しずつ変化させて行く。その変化に興奮を覚え、2人は交わり続けた。そして妻が青年に跨り、お互いがついに果てようとした時、妻の髪に結われていた真っ赤なリボンがハラリと落ちる。長い髪が青年にかかった。柔らかな髪が青年をくすぐる。妻は体を起こして青年を見下ろすと蠱惑的な視線を向ける。その光景に青年は限界を迎えることになった。妻は口づけをしながら、耳元で「愛しているわ」と囁いた。心が満たされ青年は妻の1番奥深くで果てる。刹那の間に、感覚という感覚が何度も途切れる程の快楽に2人は包み込まれたのだった。

少しの間、重なったままお互いの鼓動を感じている。2人は荒い息を整えながら、先ほどまでの獣の様な口づけではなく、ひたすらにお互いを慈しむ口づけを交わす。折り重なって、そのまま1つになっていたいと感じている妻と青年だったが、名残りを惜しむように体を引きはがすと、元通りに2人になった。並んで仰向けになり、妻が青年の胸元に顔を埋める頃には、睡魔がもうすぐそこまで来ていた。青年が妻の髪を梳くと、すぐに寝息が聞こえ始める。そんな妻が愛おしくて青年は「愛しているよ」と囁いた。そのまま目を閉じ、少しの間微睡みながらフワフワとした感覚に身を任せながら、朽ちた城に一人でいる人形のことを思った。

あの子達は冷たくなってしまった。そしてあの子は元から温もりを持ち合わせていない。それは悲しくもあるが、自らの手で温もりを生み出す事ができるのを嬉しく思う。

ピタリと寄り添って眠っている妻の体は不快なほどに温かい。その温もりに心と体が包み込まれたまま、青年は静かに眠りについたのだった。

「行ってくる。今日は遅くなるよ」そう言って妻と軽い口づけを交わしたのは早朝の事だった。仕事が重なっていると嘘をついた。これで朝から晩までの時間を確保する事ができた。街からずいぶん外れた朽ちた城に、青年は足を運ぶ。雑草が伸び散らかっているものの、青年が歩くだけの道がきれいにできあがっていた。閂がかかった大きな門の南京錠を外す。この瞬間が青年は好きだった。力を込めて扉を開け城の中を進んでいく。ある部屋のドアを開けると、アンティーク調で赤を基調とした椅子に、先日繕い直したばかりのドレスを着たビスクドールがお利口そうに座っている。「ああ、アン。会いたかったよ。君に会いたくてしかたなかったんだ」青年はビスクドールをひょいと持ち上げると、その感触を確かめる為に、強く顔を擦り付ける。妻とは違い何の温もりも感じることはないが、その洗練された姿の誘惑に青年は抗えなかった。痛いくらいに大きくなった自分自身をズボンから取りだし、一生懸命に扱き上げていく。昨日の妻との交わりとはまた違う興奮が青年を包む。もう、果ててしまってもいいのではないかと思った。しかし青年はやっとの思いでその手を止める。息は大きく乱れているものの、美しいこの子を、自らのくだらない真っ白な欲望で穢したいとは思わなかった。アンを椅子に座らせる。「なんて美しいんだ」青年はビスクドールの前に跪く。『愛しいあなた』アンが青年にそう囁いたような気がして、舞い上がってしまった。「そうだ。こんな事をしている場合じゃなかった」青年は奥の部屋から大小様々な瓶詰めを運び出してくる。その瓶の中には液体が満たされており、それぞれに五臓と六腑が切り分けられていた。「見てごらん」ビスクドールの前に跪くと、青年は人間の拳くらいの大きさの心臓を、誇らしげにビスクドールに差し出す。ホルマリンの液に浸された内臓が入った瓶がチャプンと音を立てた。当然喜びも嫌悪もビスクドールが表現するわけがないのだが、ガラス瓶の心臓越しに見える表情がうっすらと笑っているように見えた気がして、青年は嬉しかった。「この心臓はね。街で見かけた可愛い女の子のものだったんだ。アンのためにあなたの心臓をくれないか?そうやって聞いたら女の子は泣くほど喜んでいたよ。女の子ならずっと可愛くいたいと思うだろう?だからさ、あの子はアンの心臓となってずっと可愛く生きていくんだよ」クスクスと笑いながら、その他の瓶をビスクドールの前に並べていく。内臓の部位や、どんな子供から分けてもらったのかを饒舌に語りながら。

「この肺はとても元気な男の物だったんだよ。だからきっと君が走り回って息が切れてしまったとしてもすぐに呼吸を整える事ができると思うんだ。それにね、この肺と心臓の持ち主は友達だったんだよ。いや、友達というか好き合っていたんだ。だから心臓をくれた女の子の話をしたら喜んでここまで連いてきてくれたんだよ。その2人が君の中で一緒に生き続けるなんて素晴らしい話だと思わないかい?」青年は楽しそうに、本当に楽しそうにしている。「みんな、そう。みんながアンの中で生き続けるんだ」気持ちが昂揚しているのだろう。青年は1人で踊る。その姿はまるで糸で操られている人形の様だった。

青年は少し落ち着きを取り戻し、ビスクドールの前に並べられた瓶漬けを優しく撫でている。日暮れが顔を出し始めると、西陽が瓶詰めの子供達だった存在に乱反射した。「みんな、アンのためにありがとう」青年はそっと呟く。その時だった。カツリと石の床を踏む音が鳴った。青年はその音に対してひどくゆっくりと振り返る。「あなた。そこで何をしているの?」語気は怒りと戸惑いを孕んでいる。「君こそ。ここで何をしているんだい?」そこには青年の妻がいた。「あなた今日針を忘れていったでしょう?とても大切にしている物を忘れるほど忙しいのかと思ってお店まで届けにいったの。そしたら今日は一日休みを取っているって。あなたが私に嘘をついてまで休みをとるのを不思議に思って」妻は顔面を蒼白にさせている。「どうしてここが?」青年が妻に問う。「お店の人が教えてくれた。あなたよりも先に帰っている人が何度かあなたに似た人をこの辺りで偶然見かけた事があるって」誰だ。余計な事を言ったやつは。「それでここまで?」怯えながらも僕のことを真っ直ぐと見つめる瞳が美しかった。「そうよ」妻は意を決した様に話し出す。「何事もなければそれでよかった。あなたにだって1人になりたい事もあるかもしれない。だから少しだけこの近くを歩いたら帰ろうと思った」僕は黙って君の話を聞いている。「アコーディオンが聞こえたのよ。物憂げなね。昨日あなたが歌っていた曲。その音色を聞いたら胸騒ぎが止まらなくなったの。そんな時このお城を見つけた」決してこんな廃れた城に入ってくる事ができる女性ではない。けれど僕の事をそこまで心配に思ってくれたという事だろう。「君はやはり素晴らしい女性だ」思わず青年の口から妻に対する賞賛の言葉が漏れた。妻は何も言わない。少しの沈黙が生まれた。

「その瓶の中身は何?」妻が青年に質問する。「内臓だよ。僕の大切なビスクドールのアンが生きるための」何事でも無いように青年は言った。「沢山あるわね」妻はカチカチと歯を鳴らして怯えているように見える。「そのビスクドールにその内臓を詰めてどうするの?」妻の口調が段々と弱くなっていく。「アンに新しい命を与えるんだよ」青年が笑ってそう告げると、妻は消え入りそうな声を出す。「一体何人の子供達を犠牲にしたの?」うーんというジェスチャーをしながら、青年はゆっくりと妻の元へ歩いていく。視線は右上を向いていた。「どうだったかな。5.6人くらいまでは数えていたけど、良い子ばかりだったわけでも無かったからね。アンの一部になってもらった時の相性もあるから、慎重に子供達を選んだのは間違いないよ。ほら見てごらん?アンにピッタリだと思わないかい?」青年は妻の手を引き、瓶の前に導く。こぶし程度の大きさしかない内臓達が妻の目前のホルマリンの瓶に沈んでいる。

「ーーーーーーーーー!!」妻は叫びとも喘ぎとも、泣き声とも取れない悲鳴を上げた。その場に膝をつき頭を抱えて何度も叫ぶ。青年はその声を聞きながら、片膝を付き妻の肩を抱いた。「大丈夫かい?」妻はその手を払いのける。涙と鼻水のお陰で顔がクシャクシャになってはいるが、それでも妻が美しい事には変わりなかった。「泣かないでおくれよ」青年はもう一度妻に手を伸ばし、背中に触れる。今度は振り払われる事はなかった。何も言わずにゆっくりと妻の背中をしばらくさすっていた。少し落ち着きを取り戻した妻がゆっくりと口を開く。

「…どうして、私だけを見ていてくれないの?なぜあなたはその人形を大事にしているの?いいえ!人形が大切なのはいい!なぜ大事な人形を私にも、大切にさせてくれなかったの?私は!私だけの事を見ていてほしい!でもあなたが!あなたがその人形を大切だと言うなら私はその人形の…アンのためになんだってやるわ!それであなたが私の事をより必要だと思ってくれるならね!」妻の口調は徐々に早く、そして強くなっていく。「あなたが何人の子供達をアンに捧げたかなんて別にどうでも良いの!その時間が私は欲しかった!だってその時間があれば2人で穏やかに過ごす事ができたじゃない!朝起きて、食事をして、午後に昼寝だってできたわ!そして日が暮れて、2人でベッドに入って朝が来るまでセックスをしていたって良かった!もっと、もっとあなたとの時間が欲しい!…お願いだから…あなたのことを愛しているから…」妻が発した言葉の最後はとても弱々しかった。捲し立てるように放たれた言葉を全身に受けた青年は何も言わず、その言葉を少しずつ反芻していく。淑やかに水面のような女性だと思っていた。しかしそうではなく、炎のように燃える情を内に秘めていた。妻は人形と人形を繋ぎ合わせて遊んでいた青年の幼少期を知らない。それを見た周囲の人間から白い目で見られながら、虐げられていた過去も。人形遊びだけが全てだった。自分はきっと誰とも分かり合える事はない。そっとただ1人、幼い自分を心に住まわせて生きていくのだと思っていた。今日ここで君に会うまでは。

「君はやはり素晴らしい人だ」青年は目からは涙が溢れている。「これほどまでに僕を愛してくれた人は今までいなかったよ」床にへたり込んだままの妻をそっと抱きしめる。「ありがとう」愛おしいという感情はこれほどまでに溢れ出るものなのだろうかと青年は思った。そして妻と青年はやっと掴んだ本当の愛しさをお互いにきつく抱きしめたのだった。

しばらく抱きしめあって、口づけを交わしていた。「家に、帰ろうか」本当は、今すぐにでも妻を抱きたかった。それでも青年はそう聞いた。「そうね」妻がそう答えた。「アンを連れて帰ってもいいかい?」妻は笑顔で答える。「もちろんよ!」青年はビスクドールのアンを、片手で抱き、空いている手を妻と絡める。こんなに幸せな事があっていいのかしらと妻は思った。これまでも青年のことを大切に思っていたのは間違いない。しかし今はそれ以上に青年の事が大切だった。本当に。死ねと言われれば喜んで死ねる。それであなたが幸せだと、私の事を愛してくれるというのであれば本望でしかない。アンを片手に抱き、手を絡める青年を見つめていると、体の火照りを感じてくる。きっとあなたは素敵なパパになる。アンのために割いた労力はきっと私には想像ができないくらいのことだったと思う。だからきっと私とあなたの間に赤ちゃんができたとしたら、あなたはうんと子供を可愛がるに違いないわ。ねぇ?男の子がいいかしら?女の子がいいかしら?アンがいるから男の子の方がいいかしら?いや、でも女の子がお人形遊びをしている姿もいいかもしれないわね。もう何だっていいわ。あなたという人と共にいられたら、私はそれだけで幸せなんだから。手を繋いだまま、青年に身を寄せる。青年は妻の思いを察したのか、口角を上げると繋いだ手を解いた。妻の目が『どうして?』と語る。青年は何も言わずゆっくりと腕を妻の腰に回すと、ピタリと身を寄せ合う形となった。妻は驚いたように目を見張ったが、すぐに視線を落とす。幸せに緩み切った笑顔を見られるのが恥ずかしいと思った。

家に着いた時、辺りは暗くなっていた。ガチャリと寝室のドアを開ける。妻は今すぐにでも青年に抱かれたかった。しかし、青年はアンを抱いている。そして酷く緩慢とした動きで、アンをアンティーク調の椅子に座らせる。なんて美しいんだろう。朽ちた城で悲愴感を漂わせた雰囲気も堪らなかったが、こうして我が家の一部として存在させるだけで、これほどまでに艶やかに美しくなるとは思わなかった。早くこの子に『生きる』という事を味わってもらいたい。そして僕と妻との間で幸せに『生きて』欲しい。それが僕の1番の願いだ。青年はアンの冷たい頬に触れ軽くくすぐってみる。しかし何も反応は無かった。そう今は。いずれアンが笑ってくれる日がくる。その日まで、僕は、僕らは、君を生かすためだけに生きて行くよ。アンの頭を我が子のように撫でた。

激しく抱き合った後、妻と青年が語り合っている。「ねえ、私あなたとの赤ちゃんが欲しいわ?」青年は驚いた顔をして言った。「どうしたんだい急に?僕らにはアンがいるじゃないか?」意外そうな返事が妻には意外だった。「もちろんアンだって私達の大切な子よ?でも私達の血を分けた本当の子供が欲しいの」妻の真意が聞きたくて青年は押し黙っている。「勘違いしないで?アンが人形だからとかそういう理由ではないの。そんなことは絶対に無い。あなたの大切なモノは私にとっても大切なモノ。その事実は何も変わらないわ」妻の儚くも強い眼差しが青年を見据える。その瞳に青年は自らが起き上がってくるのを感じた。先ほどまで自分が入っていた妻の秘部に触れると、自分自身が放った精が溢れている。それを少し掬い上げてみる。妻は短く声を上げた。少しずつ指の動きを不規則に早く動かしていく。「アンはとても可愛いわ。けれど私達の血を引いている訳じゃない。たくさん…あなたが集めた可愛い…子供達とアンが一緒に生きていくって、本当にすばらしいとおもうの。けれど私は、あなたとの赤ちゃんが…欲しいの。髪も、瞳も、口も鼻も心臓も肺も。全てが…私達の分身。私は心から愛するあなたの血を引いた赤ちゃんをこの手に抱いてみたい。さっき、お城から歩いて帰って来た時みたいに、3人で、いえ、4人、5人…みんなで歩いて行けたら。そう思うの」指の動きに体を跳ねさせながら妻が本意を語る。青年は話を続ける妻を仰向けにし、自らを侵入させていく。妻の甘い吐息が漏れた。「それもいいかもしれないな」奥まで辿り着きながらも青年は動こうとしない。妻は甘く切ない感覚を感じながらも、青年の言葉に喜びを覚える。「そうでしょう?アンだけじゃなくて、私達の子供を育てていきましょう?」青年がゆっくりと動き始める。「そうだね、それがいい。その方がアンにとってもいいだろうし、これから生まれてくる子供達もきっと幸せだ」それだけ言うと青年は腰の動きを早めていく。妻は幸福と快楽から、言葉にならない歓喜の声を上げる。そして長い1日の締めくくりに、青年と妻は共に達したのだった。

妻は青年の胸元に頬を当て眠りについている。その手には真っ赤なリボンが、細くたおやかな指先に絡まっていた。凛と、意志の強い瞳で僕の事を見据えたと思ったら、今みたいに子供のように甘えてくる。とても素敵な女性だと思っていたけれど、僕が愛した女性は本当に素晴らしい。満足気な笑顔を浮かべながら、青年は眠りに落ちていく。

「君の提案のお陰で僕達の子供も、アンの中で生きていく事ができるんだね」

そう思いながら。青年は温かいアンを抱き上げられる日を夢見て、幸福な眠りについたのだった。

おわり

©︎yasu2023


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