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【9000字くらい】メンマ レモンサワー キムチ【同じ空の下にいる】

メンマ レモンサワー キムチ

ひっくり返った体内時計は、常人が過ごす一日とは正反対になってしまった。いつの間にこんな生活になったのかと思い出そうとしてみたが、大して意味がないことだったからすぐにやめた。クタクタの部屋着を着、近くの公園でお気に入りのレモンサワーを一晩中飲み散らかしていたが、もう朝陽が上ろうとしている。空き缶の多さで、無為な時間を過ごしたんだと確認する。こんな所で何をしているんだろうと思ったけれど、心身を削って過ごしていた場所から逃げてきた私にとって、今の生活は生ぬるくて心地よいものだった。空が夕暮れのようにオレンジ色に染まり始め、夜がさよならを告げる。

酔った足取りで、アパートの階段を登り玄関のノブに手をかけ力を込めると、鍵が締まっていて、ドアがガタンと音を立てる。合鍵を持ってくるのを忘れていた。家主はきっとまだ眠っているはずだから、インターホンを鳴らすのも気が引ける。フラフラと一人遊び歩いている私が悪いのだが、少しだけ孤独な気分になり溜め息が漏れる。ここへ流れ着いてから、一方的に送りつけた退職願がどうなったか少し気になったが、何もないという事はそういうことなのだろう。

何となく、ただ何となく通勤電車とは反対方向の電車に乗り込んだあの日。窓の外には見知らぬ土地に生きる人々や建物が見えた。終点まで乗って次の電車へと乗り換えると、そこにはまた、同じような光景が広がっており、私の知らない世界があった。時々スマートフォンがブルブル震えていたが特に気にも留めなかった。細い紐で緩く乱暴に締め付けられていた体が、少しずつ解かれていくような感覚だった。何本の電車を乗り継ぎ、いくつの駅を通り過ぎただろうか?それほど大きくはない駅で降り、大きく伸びをすると身体中の骨がポキポキと音を立てた。どう帰ればいいのかわからないが、そんな事は別にどうだってよかった。

鍵のかかったドアの前で私は立ち尽くしている。ポケットにはあなたがくれた裸の千円札が1枚しわくちゃになっていた。もう一度レモンサワーを買い足して公園で時間を潰そうかと思って踵を返した時、ガチャリと鍵を開ける音が響いた。まだまだ眠そうにしているひょろっとしたあなたがドアから顔を覗かせる。私は笑顔を見せ小さく手を振る。あなたは舌打ちをするとドアを大きく開き、私を招き入れる。「どこいってた」目が真っ赤だった。「ちょっとそこの公園で一杯やってました」舌を出しておどけてみたが、冷めた視線が私に突き刺さる。あなたは1Kのキッチンを壁伝いに歩き、奥の部屋へ入ると、ゾンビが体を引きずるようにベッドに潜り込む。サンダルを脱ぎ捨て後を追う。一緒のベッドに潜り込もうとした時「足洗ってこい」というカスカスの声が聞こえた。後で叱られたらいいかと思い気にも止めずにベッドに入る。あなたは壁側を向いているからどんな表情をしているかはわからない。その背中に額を当てる。嫌がる素振りは見せないので、足を洗っていない事は大目に見てくれるらしい。すぐに寝息が聞こえてくる。つられて私も眠っていった。

行く当てもなくさっき降りた駅から私はフラフラと歩き出した。人が多いわけでもなく、少ないわけでもない。新しいわけでもなく、古いわけでもない。そんな普通の世界に迷い込んだ私は、何だか特別な人間になった気がして笑みが溢れる。どこにでもあるスーパーに入り、いつものレモンサワーとビールと瓶詰めのメンマを買った。売っている商品は、知らない土地でも大差はないらしい。ビニール袋に入れた今日の晩酌を振り回しながらスーパーを出る。少し歩くと何の面白みもない公園があり、とりあえずこの辺りで一度腰を落ち着けようと思った。
ベンチに座るとカシャリとレモンサワーを開け一口飲みこむ。特段冷たいというわけではなく、だからといってぬるいわけでもない。絶妙な中途半端さだった。フゥと一つだけ息をつき、辺りを見回してみたが、私以外の人間は誰もいなくてガランとしていた。これからどうしようか。ホテルか、いや。ずいぶん無計画な事をしているから、マンガ喫茶で節約をした方がいい。そう思ってスマホを取り出し近くのマンガ喫茶を検索しようとした時、1人の男が公園へと入ってきた。
何の色気も感じない部屋着の男は片手にコンビニの袋を下げている。もう片方の手には500mlのビールが握られており、歩きながら飲んでいたようだった。グッと上を向き、缶に残っていたであろうビールを飲み干すと、片手で缶を潰して、公園に設置してあるゴミ箱に放り投げる。ビールの空き缶は握りつぶされた貧弱な姿になっていた。そしてゴミ箱に吸い込まれる事なく縁に当たって地面に落ちる。カランコロンという大きな音が響いたが、男はそれを拾うこともなく、1つ大きな舌打ちをし、そのまま公園を通り抜けようとしていた。握りつぶされ空き缶を哀れに思ったのか、それとも打ち捨てられた姿に同情したのかはわからなかったが、何となく黙っていられなくて「入っていませんよ」と声をかけた。

一緒にベッドに入って1時間ほど眠っただろうか。
ベッドには私が1人。ダルい体を起こしキッチンに向かう。あなたは既にベットから抜け出して朝食をとろうとしていた。「朝からキムチっていうのもどうかと思…」「朝帰りをしたやつに言われたくない」冷ややかにそう言われると、ぐうの音も出ない。「どういう気分なんだ?働くわけでもなく、家事をするわけでもない。ただフワフワと生きていくっていうのは。俺が仕事に行く時間に寝て、眠る時間に起きてくる。俺には到底真似できそうもない」すれ違う生活なのは間違いないが、自分が眠る前に、眠っている私を揺り動かして体を求めてくることだってあるじゃない。あなたの一日はそれで終わりかもしれないけれど、私の一日はそこから始まる。あなたはセックスから始まる1日を過ごした事はある?そう聞いてみたい。心の中で毒づいてはみるものの、私は口に出すことはない。その通りなのだから。そしてあなたは本当にそう思っているわけではない事もわかっている。ただ形式的に人として、ポーズとして言っている。本当にそう思っているなら私を追い出せばいいだけだ。体を求めるのだってそう。私を穴として扱うことがあなたにとっては正しい選択。そうすれば私が罪悪感を感じる事なくここにいられる。需要と供給。だから私はあなたの言葉に心が揺らいでも何も言い返さない。一緒にいるこのぬるま湯が気持ちいいから。そんなことを思いながら、私はあなたの姿を床に座ったまま見つめていた。きっと昨夜から炊飯器は保温のままだったのだろう。見るからにパサパサなご飯を口へと運んでいく。炊き立てのご飯が特別に美味しいと思ったことはないが、おそらくあなたが今食べているご飯よりは美味しいんだろうなとぼんやり思った。

私の言葉に男はピタリと足を止め、気だるそうに頭をかきながらこちらを振り返る。「あんた誰?」当然の問いだと思った。「迷子よ」私は答える。「酒を飲む余裕がある迷子か」鼻で笑いながらゆっくりこちらに向かって歩いてくる。少し体が強張った気がする。一歩一歩と男が近づいてくる。あと2、3歩近づいてきたら、ベンチから立って少し距離を保とうと思っていると、男はそれなりに背の高い体を折り曲げ、地面に転がる空き缶を拾い、今度こそゴミ箱に放り込んだ。私はゴミの捨て方を指摘した事を糾弾されるかと思っていたが、そのあっさりとした行動に驚きを覚える。少しの間呆けていると、男は私の隣にドカリと腰かけ、脚を組み、ビニール袋からお酒を取り出し飲み始めた。「迷子って何?」男の質問に対して私はありのまま答える。「朝仕事に行こうとして、いつもと反対向きの電車に乗って、何となくここまできた」何でそんなことを?と聞かれるんだろうなと思いつつ、男が私と同じレモンサワーを飲んでいることに気付く。「へぇ。どっから来た?」何故?とは聞かれなかった。「〇〇県から」男は驚き目を丸くし「は?遠。アホ?」そう私に向かって言い放つとケタケタと笑い出した。「私もそう思う」そう呟きながら私はツマミのメンマの小瓶を開ける。「何それ?枝?」コリコリとした歯触りが心地よい。「枝が瓶詰めになってるわけないでしょ」無遠慮な物言いをしてくるけれどそれほど嫌ではない。「そりゃそうだ。俺さメンマって好きじゃないんだよな。なんかこうムニムニしてるっていうかさ」食べ物を擬音で表現したことなんだか面白くて私は笑った。「人が好きな食べ物を変な言い方しないでよ」男がまたケタケタと笑った。

「行ってくる」作業着を着たあなたがボソリと呟き、玄関へと向かう。その手には燃えるゴミを持っていた。「気をつけてね」私は床に座ったまま声を掛けると、あなたは立ち止まり、こちらに視線を向ける。「どこで何をしていようがお前の勝手だ。朝帰りだって咎めるつもりはない。ただ自分を大切にしろ」そう言うと、ドアを開けこちらに視線を向けることなくアパートを後にした。カサカサとゴミ袋が足に当たる音が遠ざかっていく。今のは一体何だったんだろう?自分を大切にしろと言った瞳は少しだけ寂しそうに見えた気がした。

朝から何も食べずに電車に揺られていた私は、枝と言われたばかりのメンマを食べ尽くし、レモンサワーも飲み干した。男は私の横で500mlのビールを開けている。並んで座ってから2人とも二、三本は飲んだだろう。その間、沈黙が続くこともあったし、他愛のない話でゲラゲラと2人で笑った時もあった。不思議な出会いもあるものだと思っていると、空が急にどんよりと暗くなり雷が鳴り始める。「あんたこれからどうするんだ?」当然の疑問を男が私にぶつけてくる。「マンガ喫茶に行こうと思ってる」楽しい時間もそろそろ終わりかと思うと急に現実に帰ってきたような気がした。ポツポツと雨が降り始める。知らない場所で、知らない男の前で、雨にうたれる。私は一体何をしているんだろう。どうしてここまでやってきたのだろうか。「何で泣いてるんだ?」男の声が、思考で飛んだ意識を引き戻す。「雨じゃない?」声は震え、涙が溢れた頬に気化熱を感じる。どうしてかはわからない、ただ次から次へと涙が出てくる。止まれ止まれと思えば思うほど涙が溢れ、呼吸が不規則になり肩が震える。嗚咽が混じり、咳や鼻水も止まらなくなってきた。「局地的な大雨らしいな」私の隣で男が呟き鼻で笑っている。そろそろ本格的に雨が降り始めようかという時、私達は男の公園のすぐそばにあるアパートに転がるように逃げ込んだのだった。

自分を大切にしろ。というのはどういう事なのだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら冷蔵庫に手をかける。最後にアルコール意外の物を体に入れたのはいつだっただろうかと思った。冷蔵庫を開けてみたが調味料が少しと、数本の缶ビールやレモンサワーが並んでいるだけだった。仕方ないからビールでも飲もうかと思って一本取り出してみると、見慣れた小瓶があった。あなたと初めて会った日に私が食べていたメンマだった。瓶を手にとってまじまじとみてみると、瓶の中身がほんの少しだけ減っている。私が好きだと言ったものを口にしようとしたのだろうか。
もしそうだとしたらやっぱり口に合わなかったんだと思う。自分の話もしないし、私の事を何も聞こうとしなかったくせに。なんでこんなしょうもない事を試しているんだあなたは。ポタポタと涙がキッチンの床に少しずつ水溜りを作っていく。
あなたは冷たいけれど私を突き放さなかった。あてもなく公園にいた私の隣に座っても、何かを無理矢理聞き出そうとすることもなかった。そんな気遣いが嬉しかったから今日まで一緒にいたんだと思う。体が繋がった事はあった。でも、心は付かず離れずの距離感を保っていたと思う。
ごめんね。私の目から涙が次々と溢れていく。私は今日もあなたの帰りを待っていていいのだろうか。ぶっきらぼうな物言いだがその瞳にはぬくもりがあった。不器用で不細工な優しさが私を救ってくれた。それを何でもない今日という日に伝えてもいいかもしれない。そんな事を思いながら、私はメンマをツマミにしてビールを開ける。そういえばあの日あなたが飲んでいたビールの銘柄はこれじゃなかった。これは私が好きで飲んでいたビールだった。あなたという人は。迷子の私のためにビールの銘柄すら変えたというのか。笑顔が浮かんでいるというのに涙が止まらない。小さなテーブルに置かれたメモ用紙と無造作に寝転んでいるボールペンを手にとる。ハタハタとメモ用紙に涙が落ちた。

『あなたへ。メンマはお口に合いましたか?ビールはあなた好みの味でしたか?あなたを、今の何者でもない私で侵食してはいけない。そう思いました。だから私は出て行こうと思います。本当にありがとう。もし私が1人でこの世界に立てるようになって、あなたを大切にすることができるようになったら、またここに帰ってきてもいいですか?そんな日が来るのかはわからない。もしかしたら永遠にあなたを待たせてしまうかも知れないけれど、それでもあなたが待っていてくれるというのならば…。決心が揺らがないうちに行こうと思います。私より』

手紙の最後に震える手でスマートフォンの番号を書いて手紙を締め括った。

テーブルにペンを置く。そういえば私達はお互いの連絡先を知らなかったんだと思った。今日の朝、あなたが目を真っ赤にしていたのは私がちゃんと帰ってくるかと思いながら起きていたからだろう。一言でも連絡ができたならあなたは安心して眠る事ができたのだろうか?
部屋の隅にちょこんと置かれた私の服。いや、過去の残骸と言うべきか。私はこれからこの服を身にまとい、以前の私ではなくなったはずの私として元の生活に戻る。もしかしたら少し服がキツくなったかもしれない。まぁ、あれだけお酒を飲み、ぬるい生活をしていたのだから当然のことだろう。着替えて全身鏡で自分の姿を見る。化粧をしていない私の顔は幼い。涙を流しているからか本当に幼く見えた。ただあの日感じていた細い紐で緩く乱暴に巻き付けられていた感覚はもう感じない。ゆっくりとリビングを抜けキッチンを通る。玄関のドアを開けると、朝まで飲み明かしていた公園が見えた。キーホルダーもつけず、何の色気もない合鍵で鍵を閉めようとし手を止める。少しの間逡巡したが、私はドアを勢いよく開け、再びリビングへと走る。テーブルに置いたボールペンを手に取り、さっき書いたメモを丸めてゴミ箱に捨てると、ゴミ箱の底に落ちてカタリと音がなる。そしてまた、本音を隠した新しいメモを書いた。

『あなたへ。迷子の私を迎えてくれてありがとう。何も言わずにいてくれてありがとう。私が気にせずいられるように小言をくれてありがとう。何も聞かないくせに私のことを知ろうとしてくれてありがとう。一緒にお酒を飲んでくれてありがとう。そろそろ私はあなたに甘えて生きていくのをやめようと思います。このままでは私はあなた無しでは生きていられなくなる。そんな重たい女とずっと一緒なんて、あなたはきっと嫌でしょう?だからさようなら。ありがとう。お元気で。私より』

これで良いんだ。私があなたを縛る資格も理由も無いのだから。小さなテーブルに手をつくとメモの空白に涙が一粒ポタリと落ちた。

あの日、あてもなく訪れた町を出る。合鍵をポストに入れた時、思ったよりも大きな音がした。電車に乗ってもその音が頭の中で何度も響く。車窓の向こうでは、私の人生に関わることの無い街並みがあり、そこに生きる人達の生活があった。以前は適当に乗ったり降りたりしたものだから電車に揺られている時間は長く感じたが、最短の交通機関を使えば元の居場所に帰るのにそれほど時間はかからなかった。

見慣れた駅についた頃、月が隠れているからか、辺りはいつもより暗くなっていた。何度も通った道を歩くとしばらく帰っていなかったアパートが見える。あなたはもう家に帰っていて、私のメモを既に見ただろうか。そう思いながら階段を登って、部屋の前に着くと、ポストにはそれほど重要ではないチラシが投函されていた。新聞でもとっていたら大変なことになっていたかもしれない。思わず苦笑いがこぼれた。カバンからお気に入りのキャラクターのキーホルダーをつけた鍵を使い部屋へと入る。あの日の朝に出て行ったままの真っ暗な部屋だった。洗濯物や洗い物は残していなかったしゴミも捨ててある。緊急で何か後片付けをする必要はない。冷蔵庫を開けるといつものレモンサワーとビールが一本ずつ残っている。両手に一本ずつ持ってリビングへ足を運んだ。あなたの部屋と同じ1Kなのに、今日の私にはなぜかとても白々しく、よそよそしく映る。この部屋自体が私の事を忘れてしまって、知らない人が入ってきたとでも思っているのだろうか。1人を、孤独を自覚した瞬間だった。思わずその場に蹲る。心細くて、不安でたまらない。急に体がふわついてくる。呼吸が浅い。ああ。これはダメなやつだとぼんやり思った。1人で、自分の足で立ちたいと思って出てきたのではないか。あなたに頼らずとも、あなたがいなくても生きていけるようになりたいとそう思ったはずだった。そんな決意は簡単に折れてしまって、今すぐにでもあなたの所に戻りたいと思った。そう。私はまた泣いている。

冷えたビールが舌の上を転がり、喉を駆け抜け、胃に飛び込んで行った。少し遅れてジワジワとアルコールが私を侵食していってくれる。浅くなってしまった呼吸はビールと一緒に飲み下すことができた。いつまでこうやってお酒を飲む事で自分を支えながら生きていくのだろう。その答えを、姿を少しだけ見せ始めた月に問いかけてみたが、夜の空で恥ずかしそうにしている月は、凛と輝くだけで何も答えてはくれない。
飲み切った缶を握り潰そうとするも、私の力ではそれほど潰れることはなかった。何となく面白くない気分になって、空き缶をゴミ箱に放り投げると、縁に当たりカランコロンとフローリングの床を空き缶が転げ回っていた。どこかで見た事がある光景だなと思い、やっと涸れてきた涙が乾いて、少しだけ楽しい気持ちになる。その時だった。

手にしていたスマホの画面が明るくなる。マナーモードにしていたため、部屋に低いバイブ音がブーブーと響いている。こんな私に電話をしてくる様な酔狂な人間は誰だと思い、手の中で震えているスマホを見ると見た事のない番号が表示されている。携帯会社の勧誘だろうか?泣きすぎて息苦しいし、ヒックヒックとしゃくり上げてしまうからとりあえず取らないでおこうと思った。数回コールがなると電話は切れ、不在着信が待受画面に表示される。その番号を改めて見たがやはり身に覚えのない番号だった。すると再びスマホが震えだす。表示されたのはさっきと同じ番号だった。そういえばさっきの着信も随分長く鳴っていた気がする。余程急ぎの様なのだろうか?画面をスワイプし、スマホに耳を当てる。

「もしもし?」私が応答を示すと、少しだけ沈黙が生まれた。イタズラ電話だろうかと思った時「もしもし」と返ってくる。あなたの声だった。「え、あ、あれ?どうして?」バカみたいな質問を投げかけることしかできなかった。「家にいるのか?」あなたは私の質問を無視して問いかけてくる。「あ、はい、家にいるます」今日の朝まで一緒にいたのに電話になると噛むほど緊張するのは何でだろうと思った。「ならいい」あなたが小さくそう呟くと再び沈黙が生まれる。電話の沈黙はなんだか居心地が悪い。「何でスマホの番号を知ってるの?」居心地の悪さと、本当の疑問が言葉になった。「ゴミ箱」「え?」「ゴミ箱の中の丸めたメモ」そういうことかと理解したが少し合点が行かない。「なんでゴミ箱の中にあるものをみつけられたの?」さっきから質問ばかりしていると思った。「今日はゴミの日だった。ゴミ箱は空になっているはずだろ。家に帰ってテーブルを見たら、メモがあった。でも何となく、あのメモがあんたが本当に思っている事だとは思えなかった。よく見たら濡れて乾いたような跡もついているし。それで思った。書き直したんじゃないかって。それでダメ元でゴミ箱を覗いたらくしゃくしゃのメモが一枚あった。見られたくないなら丸めて捨てるだけではいけない。持って帰らないと。そういうこと」この男は何を思って私が本心で書いた文章ではないと思ったのだろうか?私が戸惑っているとあなたは話を続けた。「いつになってもいい。待っているから。あんたが自分を許せるようになるまで」あなたの声をこれほどまでに聞いたのは、あの日以来かもしれない。私はどれだけ涙を流すことができるというのだろう。左手で目元の涙を拭う。あなたは今私に向かって『自分の足で立て』とは言わず『自分を許せるようになるまで』と言った。ひどく優しい言葉だと思う。私が自分の足で立てなかった時のことまで考えているのだから。何か言葉を返したいのに涙が邪魔をしてそれをさせてくれないのがもどかしい。スマホの向こうでは、時折咳払いや衣擦れの音が聞こえ、あなたがそこにいることが感じられた。「ちょっだけ待っててて」それだけいうとスマホをフローリングにおいてフェイスタオルとペットボトルの水をとってくる。一口水を飲むと冷えた液体が喉を伝う。タオルで涙と鼻水を拭くと少しだけ呼吸が落ち着いた気がした。「ごめんね」スマホを再び耳に当てる。「そういう意味か」あなたは愉快そうに鼻で笑った。「『今』ちょっとだけ待ってくれっていうことだったんだな」フフフとあなたは笑っている。しかし私にはその意味がよくわからなかった。「え?何どういうこと?」「俺はあんたを待ってると言ったな?」小さい子供に語りかけるようにあなたが話す。「うん」なぜか頷いてしまった。「あんたはその後何と言ってスマホを置いた?」何を言っているんだろう。「ちょっとだけ待っててって…あー!」あなたはハハハと声を出して笑った。「そういうことだ」私は自分の発言が恥ずかしくなった。あなたの笑い声を聞きながら私はウーンと唸り声を上げる。どうやらそれがまた面白かったようで、あなたはしばらく笑っていた。

「あの日みたいだな」奇遇にも私もそう思っていた。またあなたに私は救われる。あの日も、今日も。「ちょっとだけ待ってて?」そっと私はあなたに語りかける。「トイレか?」今度は私がフフフと笑う。そしてもう一度「ちょっとだけ待ってて?」と呟く。あなたはその意味を察したようで「わかった。待ってる」と答えた。私はその返答が嬉しかった。それから少しだけ沈黙が続くと、どちらかともなくアクビが聞こえてくる。「ねるか」「そうね」「おやすみ」「おやすみ」通話ボタンをタップしようとした時「ちょっとまて!」という声が聞こえた。慌ててスマホを耳にあてる。「どうしたの?」そう問いかけるとあなたは照れたようにぼそり呟いた。「えーと。あのメンマは俺の口には合わなかったみたいだ。ごめんそれだけ。じゃあおやすみ」ブツリと電話が切れる。いつもはクールでシニカルな雰囲気を出しているあなたが、メンマの感想を言うためだけに電話を切るのを制止した事実が面白かった。時間が経つにつれて、あなたの「ちょっとまて!」の勢いが面白くて、一人だというのにケタケタと笑ってしまったのだった。

一通り笑い終えた所で私は部屋の明かりをつける。今は遠く離れているけれど、誰かが私の事を待ってくれている。それだけで少しだけ強くなれた気がした。あなたが待ちくたびれて私の事を忘れてしまう前に。私は自分の足で立てるように。自分のことを許すことができる人間になりたいと思う。

さぁ明日から忙しくなる。

終わり

©︎yasu2023


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