同じ川のそのまま上流

20年ほど暮らした街近くの川の、今度は上流に暮らしはじめ、ようやく連休に入ったので
この頃はさまざまに友たちと会っているのですけど

まあそれぞれその人たちと毎度話題になるのは、
友人関係は流動的なものだよなと。


小中学生のときは、そこにしか世界がない気がしたし、その世界に溶け込めないと人生はほんとうに終わっていたんだが、
大人(?)になってみると、いや意外と仲よくしているひとは変わり続けるものだなと。

その場その場の進行形の友人たちと、
ある意味現在完了進行形(?)の友人たちがいて、
同じ場を日々共有する人とはいやでも顔を合わせるし、
だけどそのときは例え飽きるくらい顔を見ていても、一度場から離れれば、努力しないとどれだけの時間と濃さを分かち合ってもなかなか会うことは叶わない


そうこうすると、とんでもなく大切だと思ってたひとたちの顔が、どんどん私のなかでぼやけていくのね。
とってもどうでもいいひとコマだったりが、どれだけ貴重であるかというのは通りすぎてからばかりに気づくのね。
その時に気づいていても、取っておこうと思って大切にすくいとっておかないと、どんどんどんどん手の指の隙間からこぼれていってる感じなの

だからこそ、書くことだったり、描くことだったり、撮ることだったり、録ることをして留めておきたい。
まあ、思えばその記憶を冷凍保存出来るわけでもないから、そのままの形で残せるわけでもないんだけど、でも忘れたくないというよりも、なんというか、どうしても取っておきたくて
いつかこの「感じ」を思い出したくて、残しておこうとあがきたいんだと思うんだよな。


今日〜思い出したこと〜

1960年代のアメリカの黒人の子どもたちが教わることと、2000年代の子どもたちの教わることが、全くなんにも変わってなくて、

「全然世界が変わらない!そういうの無理です!」

って言ったら、

「だから文学があるんです。」

と言われたこと



なにかを作るということは、まだ諦めてはいないのだと、そう表明し続けていることなのではないかなあ

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