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ショートショート「豆まき」


息子のタダシは、優しくて穏やかな性格だった。
まるで、春の平静な海みたいに…。
寄せては返す波の様に、折り目正しく、その中に一瞬の煌めきを見ていた私は、節分の時、鬼に豆を投げつけるタダシの姿を真横で見て、久しぶりに母親として、何か感じるものがあった。
あの優しい息子が、殺気立っている。
そして、物凄く怒っている。
何かに対して…。
その″何か″は、今は、明確には分からない。
恐らく。
母親の勘で、学校で″何か″があったとしか…。

その後、我が家の恒例行事である節分のお菓子まきの時は、小さい妹に遠慮して、お菓子を一つでも多く拾える様にサポートをする、いつものタダシの姿が、そこにあった。
最後に、兄妹でお菓子を均等に分けてあげても、妹の好きなお菓子を一つでも多くあげようとする優しいタダシ。

私は、そんなタダシの姿に母親として、何度励まされ、勇気づけられてきたか…。
子育てに四苦八苦してきた私は、息子の優しい行動の数々に、神様に、″これて良かったんだよ″と私の子育てに対して、やんわり答えをもらっていた様な気持ちになっていた。

夕食の時、さり気なくタダシに学校での出来事を聞いてみたが、当の本人は、
「何もないよ。」
の一点張りだった。
そして、母親の私に、満面の笑みを見せつける。
きっと、私に心配を掛けまいと努めているのだろう。

私は、あれから何度、タダシの学校の担任の先生に学校でのタダシの様子を尋ねようとしただろう。
その度に、タダシの気持ちや学校での立場を考えた上で、思い止まるのであった。

「余計なお世話なんだけど…。」
私は、かつて、自分の母親に、そう言葉を投げつけた。
学校で、仲間はずれにされていた私を心配して、学校の担任の先生に相談した母。
その日の放課後、クラス会議が開かれ、私の今の状況が議題となり、私は、当時、非常に気まずく、辛い思いをした。
あの時と同じ思いを息子には、させたくない。

私は、考えた。
今、私に出来る事。
ありきたりな事なのかもしれないが、今、パートをしていない私は、タダシの学校帰りを笑顔で迎える事にした。
そして、スーパーやコンビニで買ってきたお菓子ではなく、自分の手作りのお菓子をタダシの為に作る様になったのである。
マドレーヌは、ほぼ完璧に出来たのだが、ドーナツは、油で揚げた時に生地が固くなってしまった。
ケーキのスポンジは、焼いた後、しなしなと萎んでしまった。
焼き芋、大学芋、スイートポテトなど、芋が続く日もあった。
それでも、タダシは、笑顔で全部、食べてくれた。
次第に、タダシは、お菓子を食べる時間、下を俯かなくなり、私の目を見て、話をしてくれる様になった。
私は、単純に嬉しかった。
タダシは、一歩ずつでも、確実に前に進んでいる。
私は、そんなタダシの姿に、息子の精神的な成長を確信したのである。

そして、穏やかに一年が過ぎ、今年の節分の豆まきは、鬼に対して、普通に豆まきをする息子の姿が、そこにあった。
私は、真横で、息子の横顔を見ながら、本当にこれで良かったのかを自問自答していた
子育てに正解は、ない。
だからこそ、息子に問題解決を丸投げして、静観していた私は、人間としてどうなのだろうか…。
一人の親としても…。
あの時、自分の母親を一瞬でも憎んだ自分を恥じた。
親にしか分からない感情がある。
あの時は、娘として、自分の事しか分からなかったのだけれど…。

正解は、分からない。
ただ、今は、生き生きと節分の行事を楽しんでいるタダシの姿を胸に焼き付けたいと思った。
母親の自分勝手な感傷と共に…。







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