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年齢を重ねて見えなくなったもの

レンガの壁を見つけると、線に沿って
あみだくじが頭から離れなかった。

石畳の道で、色が同じ石を見つけては、
ぴょんぴょん、次から次へと跳んで歩いていた。

大人になったら、そういうのが見えなくなった。
恥ずかしくなったのか、気づくこともなくなったのか。
大人の余裕とはいうけれど、代わりに、無くした心の余裕もあるかもしれない。

ガラスのコップのふちの丸みを帯びた境界線の美しさを眺めたり、
ペットボトルのなだらかな曲線を何度も目線でなぞったり、
そんなことも無くなった。

ひとつひとつのものに時間をかけなくなったのか、
「風景」として、目に入らなくなったのか、
今考えているどれも正解なんだと思う。

ビジネスシーンでは、そういう時間は「作れない」のではなく、
「自ら作る」んだと言われる。

じゃ、れんがの壁を見つめる時間や、
石畳の道を跳んで歩く時間を確保したほうがいいのかというと、
それが正しいのかどうか分からない。

暇な時間を作ったほうがいいのかなと思うけど、
暇だと、別のもやもやしたことのほうを考えてしまう。

忙しくないように、時間を作って、
悩みは無い状態か、悩みを考えない状態を作り出さないと。

もはや、それは瞑想だ。
何も考えず、煩悩も忘れて、ただ、単純なことに集中する。

ずいぶん、高尚なことをしていたんだな。
あんなに何もすることがなくて、暇だなと思っていた時間は。

もしかしたら、もう少し年齢を重ねたら、
また、おぼろげに、あいつらは見えてくるのかもしれない。


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