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"何もしない"カフェ



"何もしない"カフェ


そう書かれた看板とお婆ちゃんの家のような小さな家屋がある。看板がなければただの一軒家のようだ。だがそのカフェからは香ばしいコーヒー豆の香りが漂ってくる。私は興味本位でそのカフェに入ってみた。


店内は外観とは打って変わって、全体的に木目調の温もりを感じさせる落ち着いた内装だ。木目調を基調としており、大きな一枚板の机や味のある茶色をしたウッドチェアがいくつかある。カウンターキッチンの棚にはありとあらゆるデザインのマグカップが並べられている。店内に音楽は流れていない。だが静けさは感じられず、なぜか迎え入れてくれるような雰囲気がある。私の来店に気が付いた店主が店の奥から出てきた。眼鏡をかけた冴えない中年男性だ。使い古されたエプロンをとりスーツを着せたら上司と部下の板挟みに日々頭を抱える係長(家庭では妻と思春期の子供に煙たがられている)にしか見えないだろう。


「いらっしゃいませ。」


冴えない係長が優しい笑顔で言う。


「こんにちは。あの、"何もしない"カフェっていうのはどういうことなんですか。」


私は冴えない係長に尋ねた。


「はい、うちのカフェではお客様に"何もしない"場所を提供しています。多くの人はたいてい常に何かしていると思うんです。暇があったとしてもテレビをなんとなく見ていたり、ケータイをいじったり。そこであえて"何もしない"ことで何か新しい発見があるのではないかと思いこのカフェを作りました。」


冴えない係長は優しい口調だが思ったより芯のある佇まいだ。


「へぇ〜、なんだか変わったコンセプトですね。でもカフェって基本あまり何もしない場所じゃないですか。」


「まあそうなんですよね。ただ一応"何もしない"と名乗っちゃってるので、複数人での来店やケータイの使用、読書などはお控えいただいております。あと"何もしない"空間にしたかったので店内で音楽もかけないようにしております。もちろんあくまでコンセプトなので、そんなガチガチに厳しくルールを作ってるわけではないですけどね。この空間ではとにかくコーヒーと"何もしない"時間だけを楽しんでいただこうということです。」


「なるほど、ではせっかくなのでコーヒーをいただこうと思います。」


「かしこまりました。ではお好きな席にどうぞ。」


店内を見渡すと客が2人いた。どちらも一枚板テーブルの席ではなく、店の端の1人用テーブルの席に着いている。2人ともコーヒーを時折すすっているが、確かに何もしていない。ただぼんやり前を見つめている。私も空いている店の端の席に着いた。木でできた椅子は滑らかで美しい色味だったがどこか自信なさげで、この椅子は冴えない係長が自ら作ったのではないかと思った。少し経つと冴えない係長がコーヒーを持ってきた。


「大変お待たせ致しました。ブレンドコーヒーです。ではごゆっくりお過ごしください。」


冴えない係長は少し会釈すると店の奥へと消えていった。

さて、どうするか。"何もしない"と言われてもどうしたら良いか分からない。とりあえずコーヒーを飲むことにした。


美味い。


私は特別コーヒー通なわけではないが、このコーヒーは何か違う。独特の香ばしい香りと飲んだ後の絶妙な苦味。そして舌触りがとても滑らかだ。私はコーヒーをじっくり味わった。店内を眺めると先程の客達は変わらず"何もしていない"。1人は大学生の男。シュッとしていて色白、やや不健康そうだが以前はサッカーをしていたといった風貌だ。チノパンに無地の紺のパーカー、靴はベージュのスニーカーだ。一見地味な服装だが一つ一つのアイテムに品を感じさせ、恐らく引っ込み思案な性格だがおしゃれは好きなのだろう。彼はきっと高校までは持ち前のルックスと身体能力でクラスの人気者となり、常に誰かの注目の的だったが、大学生になり自分と似たような人間がたくさんいるという現実を突きつけられ、やや大学生活に絶望しながらも僅かな心を許せる友人達と小さな飲み屋で朝まで飲み明かす生活をしているはずだ。そんな彼もふとこのカフェを通りかかり立ち寄った。彼は一旦今何を考えているのだろうか。


もう1人の客は私よりいくつか歳下の女。30歳を超えているが体形は保たれ、化粧の乗り良い。しかしどこか寂しげな目をしている。髪は焼きたてのクロワッサンのような茶色で、太陽が反射して綺麗に輝いている。しっかり整えられた髪とは対照的に、アイボリーのシャツの襟が一部立っている。彼女は几帳面ではあるがどこか抜けているところがある。彼女はきっと20代後半で大手企業に勤める優秀な男と結婚し、2人の子宝に恵まれたものの、家事・育児、旦那とのすれ違いに日々疲弊し、それでも最近久々に再開した旧友のように"女"を捨てることだけは絶対にしたくないと常に気を張って生きている。そんな彼女も家事の合間にこのカフェを見つけ立ち寄った。彼女は一体何を考えているのだろうか。


いけない、いけない。"何もしない"はずが店内の客で勝手に妄想を膨らませてしまった。私は気持ちを落ち着けるためにもう一度コーヒーを啜った。先ほどより深みが増した感じがする。"何もしない"ように意識すると、つい何かをしてしまう。一体どうしたらいいのだろうか。私は考えながらコーヒーを飲んだ。このコーヒーはさっきから飲むたびに味が変わっている気がする。先ほどは深みが出たと感じたが、今はやや酸味が増え、鼻を通る香りの香ばしさが増した気がする。私は何度もコーヒーを口に運んだ。また違う。また違う。やはりこのコーヒーは毎回味が変わる。不思議だ。でも毎回美味しい。なんだこれ。


私はコーヒーを味わい続けた。すると目の前に旦那が突然見えてきた。はっきりと。一瞬夢かと思ったが夢ではない。ここは確かにカフェの中だし、私はコーヒーを今も飲んでいる。しかし目の前に明らかに旦那が写っている。そしてそこに私も現れた。私と旦那が楽しそうに話している。一体なにを話しているのだろう。というか、私と旦那が話しているところなんて、なんだか久々に見た気がする。


1年前くらいから、旦那との喧嘩が増えた。喧嘩の理由はいつも大したことではない。覚えていないほどだ。しかし旦那と同じ空間にいるとつい喧嘩になることが多い。そしてここ2週間、私は旦那と口を聞いていない。今回の喧嘩の理由も忘れてしまった。しかしとにかく旦那は私のことが嫌いだと思うし、私も話せなくなっている。しかし、今目の前にいる旦那と私はすごく楽しそうに話している。昔の私達を見ているようだ。旦那はこんな笑い方をしていたのか。そして私はこんなにも笑えたのか。旦那と私はテーブルで楽しそうに何かを食べている。ハーゲンダッツだ。お互いの味を交換してまたニコニコとはしゃいでいる。


そうだ、思い出した。


私は旦那と付き合った当初、彼にハーゲンダッツをあげたことがある。彼はたかだか300円くらいのハーゲンダッツを両手を上げて喜んでくれた。彼は子供のようにバクバクとハーゲンダッツを食べた。

「他人からもらうハーゲンダッツが1番美味いんだよ。」


彼はそう言った。ずいぶん卑しいやつだ。私はそんな卑しい男の横顔を見ながら笑った覚えがある。あの時は楽しかった。あの時は。


コーヒーを飲もうとするとカップが空になっていることに気付いた。そして目の前にはいつのまにか冴えない係長が立っている。


「お代わり、いかがですか。」


そう言うと冴えない係長はコーヒーを優しく注いでくれた。私の目の前には旦那と私の姿はなかった。私は気付いた。そうか、さっき私は"何もしていなかった"んだ。"何もしない"からこそあの景色が見えた。そういうことだ。私はお代わりのコーヒーをさっと飲み干し、冴えない係長に代金を渡した。


「ありがとうございます。また是非お越しくださいませ。」


冴えない係長はそう言うと少しお辞儀して微笑んだ。私の中で、冴えない係長から優しい課長に昇進した。


私は店を出てコンビニを探した。帰りにハーゲンダッツを買っていこう。そう意気込んで歩き出した。



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