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『能動的な環境にする建築とは』

・建築実務を初めて文章を書くことが滅法減ってきた。

・自分がやりたいことの再確認

・学生時代から続けてきた勉強会の続行

これらの理由からnoteを継続したいなと思っている。表題のことだけれども、設計者として建築家として常日頃から考えていることである。身近にいる人はもう聞き飽きているくらい言い続けているけれど、この際もう一回自分の言葉で再確認。




『能動的な環境とは』


東京で暮らしていると様々なコンテンツが豊富すぎて与えられたコンテンツ自体をそのまま受動的に消費することになりがちで、例えば駅を降り立った時、訴えかけてくる記号の海に対して、自分自身の「何がこの場所でしたい」という想像力をついつい置き去りにしてしまうからだ。記号の隙間を縫って自分自身の生を感じられる能動的環境はどのような手法で獲得できるのだろうか

今の自分の小さな仮説としては

<環境に対しての想像力>に<現実のレイヤー>をしく

ワンフレースに凝縮しようとすると中々難しいのだけれども今はこのような表現になると思う。長くなるが一つずつ説明したい。



<環境に対しての想像力>

私は例えば幼少期は地元にたった新築のマンションがなぜか鬼ごっこののステージになった。マンション内の縦動線のエレベーターはたちまち鬼役の友人から逃げる装置と化しマンションの中庭は鬼のいる場所を把握するための場所となる。このような体験は形は違えども誰もが体験したものかと思う。マンションという一種の住としての記号だった空間が、子供自体の誤読により、全く別のものに書き変わるのである。

これはある環境に対して自らの持っている文脈自体でその環境の既成事実を変えることを意味する。与えられたコンテンツそのものを消費するというよりむしろそのコンテンツを読み替え、そこに自らが定位すること。その時初めて自由を感じることができるのではないか、


<環境に対しての想像力>とは、換言すれば他者や社会といったものを一旦括弧にくくることによって得られる独自のアフォーダンスだと言えよう。

街のスキマ・空き地や空家...etcにこんなのがあったらいいな、居酒屋の上にそのまま入れるお風呂があったらいいな、本当はここに家じゃなくて公園があれば・・・など、場所に対しての素朴な想像を膨らませること、簡単に言えばそういうことになるだろう。ただ、ここで空間や場所とは言わずに環境とわざわざ抽象的な言葉を使うのは、空間だけではなく人(制度)や、土木、樹木等様々な諸要素も含めた総体として表現したかったからである。


<現実のレイヤーとは>

しかしながら、他者性や社会性を一旦括弧にくくるとは、容易なことではない。日本においての土地利用は所有権によって大きく依存されるし、敷地という考えも非常に強い。そうした中で、建築自体でその場所の意味を変えてしまう試みはいかに可能なのだろうか。それがまさに自分の考えていることの核になっていると思う。

学生の時、宮崎晃吉さんの『HAGISO』に大変感銘を受けた、それまでの自分の建築における興味とは離れていて、自分にとっても新鮮な感動をしていたのを覚えている。そこで驚きだったのはホテル自体のレセプションとは別にして、ホテルの客室自体が街に点在されていることだった。それが何を意味するかというと、キーを受け取ってから客室までのルートはまさに街の要素を内包しながら日々、違う風景として体験できること、つまり敷地を超えた時間と空間のデザインが可能になることを意味していた。その当時実家の実施設計を試みている中、建築自体の広がりに対して敷地の枠組みの中でやることに悩んでいた(当時のPJにおいて)自分にとっては特別な体験であった。

そこには元々土地を所有している人自身が、何らかの建築のプロジェクトを行うに至った「きっかけ」が必ずあるはず。それはその人自身が抱える現実に対してきちんと対峙し、分析し、それを捉えた建築家が自らリスクをとりその人と「協働」する姿勢があるはずだと感じ、まずは<環境>の中の「土地」を取り巻く制度や、そこに対しての所有者をいかに、説得させ、場所を動かしていく、そういったスキルを習得できるための事務所にいくことにした。

<現実のレイヤー>とはある夢想的なプロジェクトを成立させるために自身をより具体の敷地・クライアントに対しダイブし、そこに対し建築自体がもつ射程を共有することである。


<環境に対しての想像力>に<現実のレイヤー>をしいていく、そうした先にどのような風景が組成されていくだろうかと大変楽しみであり、頑張りたいと思う。

2019.0512


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