見出し画像

遅刻と私

大学の期末テストに遅れてしまった。Marketingだった。
教授は怖かったけど、うまくやっているクラスだった。少しくらいなら遅れても入れてくれるかと思いきや、だめだと言われ、仕方なくlibraryへ。ちょうど受付に立っていた友達に、
「どうしよう。遅れちゃった。テスト受けられないかも。」と言ったら、「それならまだいいほうよ。私なんて満点取ってもDだからそもそも受けるなって言われたのよ。」
とまあ、この場では役に立たないことを言われた。笑

どうしようと思いながら、とりあえずテストの時間が終わらないとどうにもならないので、遅刻を繰り返す人について検索した。目覚ましを使いましょうとか、朝はいいよとか、役に立たないことばかりだったけれど、唯一腑に落ちたのは、”罪悪感を持ちやすいタイプなんでしょう”ということだった(このときはまだ日本語で探していた)。
今思えば、あのとき私は初めてawarenessの扉を叩いたのだった。


"今度遅刻したら落第よ"

このEpisodeの前にも、似たようなことがあった。”今度遅刻したら落第よ”と言われたけれど、実際遅れたときには、”どうしたの、座りなさい”、と言われ、もちろん成績は大丈夫だったPsychology。またあるときは、”いつも遅れるのはなぜだい?”と聞かれ、バスが…と言ったら、”バスなら気にしなくていいよ!”と言われたこともあったCalculus。じゃあ一本早いバスに乗りなよ、と言うのがごもっともだったと思うんだけど。

Marketingでは、前にクラスの最後だけ来たclassmateがいて、板書だけとる!と言ったら、怒られていたので、私はLibraryでとてもびびっていたが、テストはあとで受けさせてもらうことができた。私は成績がよく努力もしていたため、好印象だったらしい。ちなみにこのあと、”私はMBAを考えているんだけど、どこがおすすめでしょうか”、という話をした。それがこの人との最後の会話だったように思う。MBAに行かなかった話については、以下で書いています。

このあとで違う友達に相談したら、”そもそも遅れるということ自体が俺にはない”と言われ、unhelpfulであった。しかし、友達レベルでは、この時点で本当にためになることを言ってくれる人はいなかったであろうと思う。

そして正直に、なぜ私がぎりぎりに家を出てしまうのか、その行動から何を得ているのかを考えてみた。すると、私は間に合うか間に合わないかのthrillが好きで、これなしには毎日がつまらないと思っている、ということがわかった。そんな理由ってあるのと思うだろう。あるのだ。

数年後、クラスにいつも遅れてくる彼(このあとつきあった)との初デートでこの話をしたら、
「そうなのか。笑 俺はただlazyで遅れてるだけなんだけど」
と言った。このとき私はon campusで、バス数分でクラスにたどりつける距離に住んでいた。乗り換えが少ないほど、margin of errorは減るので、安心だった。そもそもクラス自体は、多少遅れることくらいなんでもなかったのだが。期末テストでもない限り。そして期末 テスト自体も、代わりにEssay(日本ではレポートかなあ。締め切りまでに書いて提出)が増えて、少なくなっていった。

遅刻ってどうやったら治るの?

それまでは対処療法だった。TOEFLに遅れて受けられなかったときは、今はもうないジュンク堂に行って早起きの本を2冊買った。だからって治るもんではない。お金は無駄であったが親が出しているし、結果で見ればこの前後で点数は変わらなかったし、気が進まなかったので、TOEFL自体は受けなくてもよかったと思っている。このときも呼び出されたのだが、やはり一切怒られなかった。
「普段成績もいい。賢い。努力もしている。OK?」
本当に、それだけだった。

友達と待ち合わせを寝ていてすっぽかしたこともあった。これは、時間で、早起きではないような気もする。先輩との待ち合わせに一時間遅れていったこともあった。もちろんいなくなっていて、あとで違う場所で会った。
だけど、誰も、私を、責めなかった。私はどこかで怒ってほしかったのだろう。だめだと言われて、悔しいと思う。だけどそれが、罪悪感のある状態で、”存在していてごめんなさい”、価値のない人間で。それにそんなわけない!と反抗しているのが、私のidentityだったのだから。

小学校から早歩き

なぜそもそもこんなことになったのだろう。小学生の時から、朝はいつも早歩きだった。信号を一つ越えなければならず、旗振りのおじさんに時間を聞いた覚えがあるし、信号を待っている間に、imaginaryの私は渡った先を進んでいて、信号を渡り切ったところでwarpできたらいいのに、と思っていた。笑

私にとって朝とは、自ら起きるものではなく、嫌々起きるもので、起こされるものだった。反抗の方法だったのだろう。なぜ反抗していたのかといえば、emotionally neglectfulな親で、”私のneedsを満たしてくれない親にどうして従わなければならないのか”と思っていたからだ。得意なことや好きなことを発掘してくれなかっただけではない。苦手なことがあること、それは当たり前に誰にでもあること、そして、苦手なことはあっても、対処はできるし、努力次第でなんともなることを、教えてくれなかったのである。

幸い致命的なことは何もなかった。いい縁のおかげで、なんとなく気になる方向に向かっていけば受け身でもなんとかなることが多く、ダメージが少なかったのは幸運だったのだろう。だけど卒業後のcareer選択では相当苦労している。

努力>能力・才能

あるときFreakonomics Radioを聞いていて、子供や選手を育てるには、苦手なことをしたときに、’難しかったけど、努力をしたね、えらいね’と褒めましょう”と言っていた。才能・能力だからではなく、努力だ、と褒めることが重要なのだという。

目からうろこだった。私の辞書には努力という文字はなく、すべては才能でできるか、できないかだけだと思っていた。準備で結果は変わってくるだろうテストでも、基本的にはどうにもならないと思っていた。だけど違った。全然違った。これを聞いたのは、いつだったか思い出せないのだが、もっと早く知っていたら、私はおそらくIvy League Schoolに受かっていただろう(金額的に行けたかどうか、happyだったかどうかは別として)。まずは自分を認める、というか、その前に気づくこと、そのためには意識を送ること。そこから、どう思うか、どうしたいかを聞いて、そのために何ができるかを考えて行動する。そういうことだ。

都庁の定時

仕事を8:00始業にしたことは、大きな変化だった。
都庁では、昔からの定時は9:00-17:45で、それから8:00-11:00で開始時間を選べるようになった。私は9:30にしていたが、オリパラの前年には、混雑緩和の実証ということで、8:00までに来るか、11:00に来るかの2択しかない時期があった。そのとき私は11:00にした。
11:00-19:45にすると、夜が長くて疲れるのだ!計画的に有休を消化している私のようなタイプには、迷惑な話だったが、夏の休暇消化も目的の実証だったので、毎日1時間休をとり、水泳を習っていた日は2時間休をとっていた。3週間だけだったので、それで済んだ。

その後コロナ禍で、7-8:00に来るか、10:00に来るかの2択になった。元々9:30だったので、30分後ろ倒しにして、10:00にしていたのだが、夕方うだうだ残業して話しているのを聞きながら私はまだ仕事、というのも嫌だったし、"朝が苦手だから10時"と、馬鹿にされている場面も多々あり、色々思うところがあって8:00にした。

不安だったが、やってみた。この頃の流れについてはまた書くとして、これが意外と簡単にできてしまい、翌日も翌々日も眠くなることもなく、体の調子もよくなった。これを2か月間続け、私は出向になった。出向先の定時は8:30だった。少し遠くなったのもあって、8:30にした。テレワークばかりであまり行かなかったが、遅れることはなかった。ひやひやしたことは一度あったものの、最初は大丈夫だけどどんどんだめになっていく、というかんじでもなかった。

準備とセルフケア

今は遅刻はしない。なぜかと言えば、きちんとGoogle mapで時間と距離を見ておくからである。そして、それを今までしてこなかったのは、もちろんtechnologyがなかったというのもあるのだが、そもそも、”運命とは努力で変えられるもの”という概念がなかったからである。自分で何とかできるもの、だとは、誰も教えてくれなかった。簡単にできるか、できないか、どちらかだった。Self-careでもある。明日は早いから、落ち着かなくても切り替えて寝よう。予定を詰め込まないようにしようと、自分を大切にするからできるのだ。

早起き=睡眠不足=体調が非常に不安だったのだが、今のところそれもない。普段、休みが続くと時間がどんどん遅くなりがちだけれど、起きなければならないときには、寝不足でもなんでもきちんと起きられることもわかっている。YTTのZoom Sessionsが夜中やら早朝やらに毎週あった時も、戻すのに数日かかるものの、おおむねいつも通りでやってきた。できるならそのあとまた寝ればいいのだ。そして、Zoom Sessionsは一度も逃さなかった。

今は、早く起きるのが嫌だなとは思うものの、そこまでの反抗心は感じない。何より自分が困るのがわかっている。大丈夫だ、起きれる~と、心配すらしていないときこそ忘れているので要注意なものの、起きれるかな、と頭をよぎっている時点で大丈夫なのだ。もちろん遅れることはあるけれど、それは美容室に数分とか、そういう遅れてもOKなもののみだ(時々は好きに反抗しないと)。自信、ということになるのだろう。自分を信頼している。私なら、できると。今はありがたいことに、罪悪感は過去のもので、苦手意識もない。

もし、いつかの私と同じく、”遅刻”で検索しまくって、ここにたどり着いた方がいるなら。参考になれば幸いです。

アラームを使おうとか、気が緩んでいるとか、そんな簡単なもんじゃないんですよ、遅刻って。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?