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真の利他的な優しさは私の中にあるのか?【深夜3時の逃避行 #8】

私には子どもの頃からずっと考え続けているテーマがあります。それは「真の利他的な感情は私の中に存在するのか?」ということ。

初めてそのことを考え始めたのは、小学4年生の頃。当時の私は優等生で誰からも「優しい」と言われ、友達にも先生にも気に入られるようないけすかない子どもでした。その頃、クラスでいじめとはいかないまでも避けられているA子ちゃんという女の子が一人いて。私はその子を不憫に思い、仲良くしてあげようと思っていたんです。そんな日々が長らく続きいたある日、職員室で1対1で話していた先生に「A子ちゃんのことありがとうね。ぴんくちゃんは優しいね」と褒められ、それを誇りに思いながら家路につきました。

が、その日幼き私は気づいてしまったんです。私の優しさは所詮、誰かに褒められたくてしたことなのではないかと。しかも人に優しくすればするほど、その当人、そして周りの人間からどんどん”私が”好かれていく。優しくあることは人間として一番尊い行為なのだ!と。そんな感情に気づいたとき、私はA子ちゃんを利用したんだと失望しました。

それから数十年経った今も未だに、優しさについては私の中のリトルぴんくとの議論が交わされています。中間結論がこちら。


①同情説・・・困ってる人や寂しそうな人を見ると何か役に立ちたいと思うことはありますが、可哀想と思っている時点で同情なのでは。同情要素がなくても相手のためにしてあげられるのが真の利他的行動だと思うので優しさとは少し違うと思います。
承認欲求説・・・優しい人間だと認められたくて、人に優しくしているのではなかろうかと。誰かに必要とされたい欲が強いので、この説はかなり有力。
③見返り欲求説・・・これもなかなか占めていると思うんですが、優しくしたことによって相手に好かれたいという気持ちは絶対にゼロではないと思います。また、雰囲気を悪くしないため、会話の流れを潤滑にするためという理由も見返りの一つかなと。
④道徳的行為・・・道徳教育の賜物、「人間としてこうあるべき」というある意味宗教的な感覚からくる優しさなのでは。最初は教えを守りたい一心で優しくしてたものの、途中から自分の感情だと勘違いしているパターン。
⑤連鎖反応・・・一説によると、誰かに優しくしてもらった人は、同じように誰かに優しくする性質があるそうです。その連鎖反応がそこらじゅうで起きて、優しさが広がっている可能性。
⑥性癖・・・個人的にはこれが一番リアルなのではないかと思ってるんですが、相手のためではなく、その人を助ける行為そのものが快感となっているヒーローシンドローム的感情。

とまあ、大体私の中の「優しさ」はこの辺りに分類される模様です。分解していけばしていくほど、悲しくも1mmも利他的な、その人のためにという感情はありませんでした。どれをとっても結局利己的な感情でしかありません。でもそれでいいとも思います。おせっかいは良くないけど、相手がそれで助かったり嫌な思いをしなくて済むならウィンウィンですよね。

ちなみに今回述べたことは全て私個人の価値観ですので、中には本当に利他的な行動を取れる人もいると思います。そういう人って尊敬します。



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