死にたいと呟く私の思考を分析する
土曜日の朝。
6時に起きる。
トイレよりも歯磨きよりも何よりもまず食べ物を口に入れた。
目玉焼きのトーストを食べ。イチゴジャムのトーストを食べ。イチゴのアイス・・・を食べた。
来週の今頃はソーシャルフットボールの全国大会。佐賀にいる。
気持ちはまだ緊張とかはなく余裕がある。
でも身体は不調。重たい。
ここ一か月、心が不安を抱えている感覚。自分で自分のこころを満たすことができていない感覚。
こういう時、私は食べ物を口に詰める。
口に詰めるとき、美味しいとか、お腹いっぱいとかは感じなくて、脳全体が麻痺していて、ただ食べ物を口いっぱいに詰まっていることへの安心感で一時的に不安を紛らわす、こころを満たす。
漠然とした不安に襲われるたびこれを繰り返す。
食べ物を口に詰める行為で、私は不安な時間を越せる。昼を越え、夜を越え、生きていける。バイトや大学、自助グループの活動は参加できる。
誰かといるときはその行為は必要がなくなる。周囲に自分の弱さや病気を見られたくないから控えるという理由もあるが、誰かといると安心できてこれでも一時的に不安が満たされるからというのも理由である。
食べ物を口に詰める行為で、私は不安な時間を越せる。昼を越え、夜を越え、生きていける。
だから私はこの行為を無理に手放そうとはしない。だってこれのおかげで生きていける。この行為を無理に止めて不安で押しつぶされて社会参加ができない、睡眠薬のオーバードーズで精神科へ入院する、自分の時が止まるよりも良いではないか。バイトができ自助グループへ行き、他者と繋がることができるならば、時にはこの行為を使って間を持たすことはベターな選択。
○○○
―依存は悪いもの?
何かに依存することで良い結果が生まれることも悪い結果が生じることもあるのが事実だと思う。
―良い依存か悪い依存かの判断基準は?
アルコール依存症、ギャンブル依存症、ゲーム障害などの診断基準はWHOやらが数値化して発表している。
だが、私個人の考えでは、その依存が自分のためになっているか否か、自分自身がどう捉えるかだと考える。この判断は本人がするものであり、すぐには判断が難しいものでもある。良し悪しは表裏一体。
赤ちゃんの頃の私はお母さんに依存してた。栄養の摂取も身体の清潔を保つのもお母さん任せ。でもこれは良い依存だと思う。
赤ちゃんは大きくなるために必要な愛情をたくさんもらう時期だし、私が成長していくために必要な依存。
一方で、今の私も他人に依存する。作り話だが、自助グループである一人の仲間に依存していたことがある。そのグループで一番中心的なメンバーで、お母さんみたいな人。私はその仲間に嫌われたくなくて、その仲間の顔色をいつも気にしながらグループの活動に取り組んでいた。これは悪い依存だと思う。理由は、私自身のためにならないから。
仲間の機嫌次第で私の感情も一喜一憂、激しく揺れ動く。自分と向き合うために自助グループに参加しているのに、そこで自分の居場所を確保することに必死で疲れてしまった。私にとって自分の成長には繋がらない依存だった。
また、別の例では、お酒を飲むことでストレス発散になる、美味しいワインを飲むために仕事を頑張るならばそれは良い依存だと思う。
しかし、お酒の量が増え、肝臓を悪くする、それは恐らくその人にとって、お酒がどんなにストレス発散になり、人生の楽しみであろうとも、お酒はその人にとって健康を脅かす悪い依存になると思う。
○○○
私の食べ物を口に詰める行為を考えてみる。
食べ物へ依存しているという事実が浮かびあがる。
冷蔵庫にあるものを同居している母に断りなく、というかこの行為に至る時は断る時間もなく、全部胃の中に入れてしまう。仕事から帰ってきた母は絶句して、自分の夕食を求めてコンビニへ行く。
大量の過食の後、重たい身体をしらふで感じる。自分が嫌になる。
次のフットサルの練習日を思い出して心配になる。
体重計に乗る度に私のメンタルはボコボコ言う。
おそらく自分のあれこれを包み隠さず話すと医学的に摂食障害に引っ掛かると思う。
つらい。心も身体も負荷を背負う。
ただ、今の私はこの行為を無理に手放そうとしない。ダメのものとみなし、摂食障害として整理し、治療を受ける、治そうとするということをしない。
―なぜか?
自分が自分のなかのベターな状態を維持して生きていきたいから。
そう生きていくために、今の私にはこの行為、食べ物への依存が役に立つから。
食べ物を口に詰めていると脳みそが麻痺する。ぼやける。
食べ物を口に詰めることで、口が物でいっぱいになっていることで私の心は安心する。
自分で処理しきれない不安に襲われているとき、誰にも頼れないとき、考え込んでしまうことが頭から離れないとき、死にたいと思うとき、何度も声に出してしまうとき、食べ物を口に詰める。
それで頭をぼかす。それで間を埋める。
そうすることでその時間を越せる。自傷行為やオーバードーズには走らずに、身体の重さや罪悪感は引き受けながらもまた次の日を迎える。次の一日に、自分の生活に戻ることができる。
―表裏一体
摂食障害といえば摂食障害なのかもしれない。食べ物依存なのだけど、悪い依存かと問われると、そんなことないと自分で判断する。確かに身体のこと、金銭的なこと、家族との関係のことなどを考慮するとベストな選択ではない、でも今の私を生かしてくれる依存。
大事なのは病気うんぬんや依存症うんぬんではなく、自分がより良く生きていくための方法が何か模索すること。自分が楽になるための、自分を大事にできるための選択を取ること。
この行為は私のリカバリー(自分がより良い状態で生きていくための選択をすること)のひとつの過程だと思う。
2年前までは、不安に襲われたとき、感情が乱れた時、必ず睡眠薬をオーバードーズした。脳を麻痺させて、時間を止めた。でも、今はしない。私はODのあとの身体のだるさ、うつ、妄想、、、。薬に手を出すと生活を続けられなくなることを知っているから。私はやっぱり自分がより良い状態で生活したいという希望をもっているし、生きる喜びも感じているので、薬には手を出さない。
薬のすり替えが食べ物なのだろう。それをすり替え依存と揶揄する人もいるが、自分はそれでいい。大事なのは依存しないことではなくて、より良い状態で生きていくことだから。
自分のリカバリーの過程の中でいつか食べ物も手放す、食べ物以外の対処法を見つけるときが来ると思う。
○○○
死にたいと呟く私の思考を分析する
これはオーバードーズを手放すときに役立ったことであり、食べ物も徐々に手放していくことに役立つだろうと思う。
―依存の裏にあるもの
睡眠薬のオーバードーズにも、食べ物を口に詰めるという二つの行為に共通するもの、それは脳を麻痺させたいという欲求
なんで麻痺させたいのか。
全部忘れしまいたい。考えすぎてしまうことから逃れたい。
―そうでまでして忘れたいこと
小学生の頃の自分は、プレッシャー、自分が一番じゃなきゃいけないと思っていて、負けるのではないか、ということをいつも考えていて、忘れたかった。
中学、高校の頃、自分の言ったあの一言を友達はどう思っているだろうか、誰からも嫌われたくなくて、人間関係に過敏になっていて、家に帰るとすぐに睡眠薬のオーバードーズして脳をOFFにした。
今でも、人から自分がどう思われているか、悪く思われていないか過敏にアンテナを張る。考えだすと自分ではその考えを切れない。例えば、バイト先の店長に嫌われたんじゃないか、自分が悪いことをしたと考えだすと、自分ではそこから離れられない。ずっと考えてしまう。
仲間に話を聞いてもらえると楽になるんだけど、すぐには話に行けない。自分が失敗したと感じる話をすることが恥ずかしくて、いつも最初は一人で抱えてしまう。
そんな時に、もう私なんてこの先生きていても仕方のない人間なのだ、もう疲れた、やだ、この世界から消えてしまいたいとなる。本心ではないにしてもこういう思考が頭を支配する。それはやはりしんどくて、脳を麻痺させたくなる。
―今朝の死にたいを考察する
昨日、今日とメールを書くという作業をした。メールのやり取りが重なる時って重なるもので複数人の方とメールで連絡を取りあった。それに思い悩んだ。
今の私の環境ではメールを使う機会があまりない、基本的に直接会ってコミュニケーションを取ることが多い。ラインも一日にほとんど使わない。
つまり、メールで文章を作り、それで連絡を取り合うということに慣れていない。LINEですら慣れてない…。
この文章で伝わるかとか、長すぎてはいけないだとか、これで相手はどういう風に考えるか、私の考えていることが正しく伝わるかだとか、考えまくる。メールひとつ送信するのに一時間かかる。
送った後もくよくよする。あー死にたい死にたい。恥ずかしい。ごめんなさい。私より優れた人はたくさんいる。と脳内で永遠ループ。
これが今朝の死にたいの理由であり。
今朝、食べ物を口に詰めることで脳を麻痺させたかった理由。
それだけで?と思われると思う。でも私はこんなことに悩んでしまう。こういうのが過食やオーバードーズの背景にある。
―思考を分析する意義
過食やオーバードーズはその裏にある私の思い悩みを誤魔化すもの。一時的な対症療法である。対症療法として、私にはオーバードーズは身体への影響面でデメリットが大きいので選択しないが、過食は一定、自分が生活していくことの手助けになってくれると感じるから利用している。
ただ、対症療法だけでやり過ごすことがベストだとは思わない。いくら過食が役に立つと言えども心身両面で辛さを感じているのは事実である。
そこで、過食の代替になっていくと思うのが、思考を分析するということである。
今朝の私のことを振り返る。
さっき書いたように、麻痺させたい原因となる思考を書き出す。
自分の考えを客観的に捉える。
こんな感じで客観視して感じたことを書き出す。
―書き出してみて気持ちはどう?
楽になった。考えすぎることではない。送ったメールのことでくよくよ悩み過食するのはもったいないと思う。時間も身体も。
自分の問題、修正できる問題に気づいた。
メールの目的が相手に好かれることになってしまったが故に悩んでいる。これはメール以外の場面でもよくある。他者に好かれたい思いが、脳を麻痺させたい原因になっていることはよくある。
他者に好かれたいを手放す方法を考えていきたい。一つは行為の目的を都度思い出すこと。メールの目的、自助グループに参加している目的など、思い起こして、気持ちを持ち直すことが大切だと思う。
○○○
リカバリー、自分がより良い状態で生きていくために、ウェルビーイング、自分の中から湧き出る喜びを感じることを目指して、自分の行動を自分が選択していきたい。
依存に頼ることもリカバリーの過程で必要な時期もあるし、今の私も食べ物へ依存することで生きることができている。でも、それだけではなく、心の自立も目指していきたい。成長したい。それがウェルビーイングにもつながるはずだから。
ときに自分の思考と向き合う。自分の麻痺させたい感情や自分の脆さ、恥ずかしさにも目を向けてみる。そこには自分が変わるヒントが詰まっているだろうし、自分の力になってくれるはず。少なくとも食べ物よりかは自分の成長のヒントを秘めている。
生まれ持った体質、他者の目を気にするとか、いろんなことを考えすぎるとこ。育ちの中で身に付けた考え方、失敗しちゃいけない、誰にも嫌われたくないということ。これらはすぐには変わらないし、一生変わらないかもしれない。
そこから発生する生きづらさ。生きづらさを抱えながらも生きていくためにオーバードーズや過食は役に立った。
でも自分のために、自分がより良い状態で生きていくために、生きづらさに対するアプローチを変えていく。それで自分の人生を大切に、楽しく生きていきたい。
死ねなかった。死ねないん。生きるしかないなら、より楽に生きたい。
そこには仲間が必要。仲間と繋がりたい。
過去に戻っても未来を想っても、私という人間は1人しかいなくて、過去の経験や嫌な性格をどこかに置いていくこともできなくて。
でも、出会いや学びの中で自分自身は変わっていけるし、生きていける。
出会いや学びのきっかけをくれた過去の自分、生きようともがいてくれた過去の自分も大切にしたい。
オーバードーズを繰り返して、周囲を困らせて、薬物依存症と診断されて、でもあの時、薬があったから生きてこれたんだと振り返る。あの時、苦しい一日一日を薬とともになら越せたから今がある。
今、同じくオーバードーズで一日を越えている仲間や家族さんに自分ができること。自分の経験を伝えること、それだけはできるから、少しずつ伝えたい。
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