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【読書日記】 「アロハ、私のママたち」 イ・グミ著 李明玉 訳


1917年、亀浦(クポ:朝鮮半島の南東部)

強い人はやさしい、逆もまた然り、と思いました。

時代は日韓併合後の1917年。
ひとりの行商おばさんが持ちかけた「ハワイへお嫁に行きませんか?」のひと言から始まる3人の娘たちの苦難の物語です。

「アロハ、私のママたち」

1903年から1905年まで、7千人余りの韓国人(本書あとがきでは「韓人」と書かれてあります)がハワイへ移民。
すでに家族を持っている人は一家で、それ以外は独身男性だったので、彼らが家庭を持つためには写真結婚という方法を取らざるを得なかった。
アメリカではこの頃、異人種間結婚が禁止されていたのでアメリカ準州であったハワイでもこの法律に倣い、韓国人や日本人移民は結婚するために本国へ自分の写真を送り、それを見た女性たちがハワイにやって来て婚姻の運びとなる。

行商のおばさんは、自分の親戚筋の女性がハワイに嫁ぎ、たくさんのお金を実家に送金したため、実家は地主になれたんだよ、と話し、寒村で一家の大黒柱を失った貧しい家の母・ユン氏とその娘・ポドゥルに写真結婚の話を持ちかけた。
この時、ポドゥルは17歳(韓国では今でも?日本でいう数え年で年齢を数えるので、ポドゥルはまだ16歳かも)。


目次

ポドゥルは父を亡くして以来、学校に行けずにいたので、行商おばさんの「ハワイへ行けば学校で勉強することができるし、あちらの言葉も話せるようになる」の言葉に心を動かされ、おばさんが勧めるままに写真の男性、テワンと結婚することを決めた。

ポドゥルの親友で、結婚したもののたった2ヶ月で未亡人になってしまったホンジュが写真結婚の話を聞きつけ、彼女も行商おばさんが持っていた写真からひとりの男性を選び、ハワイへ行くことにした。

2人が村を出発し一日歩き通して、まずはこの縁談を持ちかけた行商おばさんの家に到着した。
そして、この家で働いているソンファという娘も写真花嫁として、2人と一緒にハワイへ向けて出発することになった。

ソンファは「陰キャ」ですが、後々キーパーソンになる女性です。

ホノルルへ

三人は釜山港から下関へ着き、その後、列車で神戸を目指した。
神戸にしばらく滞在して、病気がないかチェックを受け、問題なければハワイ行きの船に乗る。
船には同じようにハワイ在住の日本人と結婚するであろう日本人の娘たちが乗っていた。

写真花嫁の絶望

長い長い船旅の末にホノルルに到着。
そこで初めて伴侶となる男性と対面するのですが、もうみなさん、察しがつきますよね・・・。
写真とは似ても似つかない男性たちが待ち受けているわけです。

ホンジュの夫になる人は、立派な家の前庭でクルマに片脚をかけたポーズの写真を送って来ており(顔は小さくて見えない)、年齢は38歳。
しかし、実際は49歳でずっと昔に撮った、それも誰かの家とクルマの前で撮らせてもらった写真だった。

また、ソンファの相手も初老の男性だった。36歳だと言っていたのに。
唯一、ポドゥルの夫になるテワンだけは写真どおりの実直だ男性だった。
しかも、テワン以外は文字も書けないらしく、韓国を発つ前に交わしていた手紙は誰かの代筆によるものだったと、ホンジュは気付かされた。
すぐにでも帰りたい、と言うホンジュに、夫になるドクサム
は、ホンジュを呼び寄せるために送ったお金を返してからにしろ、と言う。
ホンジュはハワイに止まるしかなく、彼女のような写真花嫁は韓国人にも日本人にもたくさんいた。

写真花嫁wiki情報

この、写真だけを交換して結婚するやり方は、単身でハワイへ移住した男性が家庭を持つ唯一の方法でしたが(上にも書いたように、当時のアメリカでは異人種間結婚が禁じられていた)、このように若い頃の写真を送るとか、収入や仕事内容などについて虚偽の報告をするとか何かと問題が多く、本国から一大決心してやってきた若い女性が悲しい目に遭うことばかりで読んでいても「どう言うつもり?」と腹立たしいのですが、その男性側の言い分が本書にはほとんど書かれていません。

一ヶ所だけ、日本人花嫁が泣いていて、その横に「花婿と言うには歳を取りすぎた男性」が煙草を吸いながら空を見上げている、とか、同じ船に乗っていた韓国人花嫁がしゃがみ込んで泣いており、その横ではシワだらけの初老の男が帽子を握りしめて途方に暮れたような表情をしていた、とか書いてありました。

自分たちが若い女性を騙した、彼女たちの人生を奪ってしまった、というような考えはないんでしょうか?
中には、女性の方でも自分よりもっと見栄えの良い別人の写真を「私」だと偽って相手方に送る、なんて強者もいたようです。そして、ハワイの港に迎えに来た男性が「写真とは全然違うではないか!」と結婚を拒否する事例もあったとか。
想像するだにカオスですね・・・。

写真結婚システムは移民先であるアメリカが「配偶者や家族の呼び寄せは可」としていたため、女性たちはまず韓国で婚姻届を出して写真でしか知らない男性の妻となり、ハワイへやって来るんですね。
妙な習慣ですが、韓国では当時は親が決めた相手と結婚するのが普通で、結婚式の当日に新郎新婦が初対面することが珍しくなかったんだとか。
でも、これは日本も同じようなものだったのでしょう。

写真の交換のみで女性を呼び寄せて結婚する方法は、アメリカが「個人の思想や感情を無視した行為」と非難し、1920年には廃止されたそうです。


目次2

移民1世の暮らしがうかがえる小説

この小説は、1900年代初めの朝鮮半島南部に暮らす人々のようすや、移民する理由、移民した先での暮らしぶりなどを教えてくれます。

年齢や生活状況などを偽らなかったテアンですが、両親に連れられて移民してきたものの、安定した生活が送れず悲しい出来事もあってポドゥルにそっけない態度を取り続けます。
ポドゥルに優しいまなざしを送り続けた義父が、ポドゥルの支えになりました。

私がアメリカ・カリフォルニア州に住んでいた時、日系人がたくさん周りにいました。
その人たちのおばあちゃんか、そのひとつ上の世代の女性に写真花嫁さんがいたかもしれません。

タイトルの意味

ポドゥルは、ハワイへ行けば勉強ができると信じていました。
父は女の子のポドゥルに勉強を教えてくれていたし、ポドゥルも学ぶことが大好きでした。
しかし、ハワイでの生活は勉強どころではなく、ポドゥルもお金を稼がなくてはなりませんでした。

一緒にハワイへやって来たホンジュとソンファもそれぞれに苦しい生活を送っていました。
苦難の中で少しずつ逞しくなってきたポドゥルとホンジュは、ソンファも呼び寄せて3人でビジネスを始めます。

ある日、3人とポドゥルの子供たちとでワイキキビーチを訪れます。子供たちが波と戯れている様子を自分たちの人生に重ねている場面で、朝鮮半島から写真花嫁としてハワイにやって来た3人の話は終わります。

そして、「パンドラの箱」の章からは、ポドゥルの娘・パールの語りで進みます。
Korean American 2世のパールは、韓国語より英語が流暢なようです。
パールの母、ポドゥルは父のテアンとカーネーションの農園を始めています。
この章を読むと、「アロハ、私のママたち」のタイトルの意味がよくわかります。

どんなに過酷な状況にいても助け合い、強くなってきた三人。
強い人はやさしい、と思いました。

「作者のことば」と「訳者あとがき」も読み応えあり

先ほど、私がカリフォルニア州に在住していた時に日系人が周りにたくさんいた、と書きました。
在住時に、少し興味があって日系人に関する本を読み、移民1世が結婚する場合、写真の交換でのみしか方法がないということは知っていましたが、写真花嫁を軸にした日本語の本などには出会いませんでした。
もし、小説など日本語で書かれたものをご存知の方がいらっしゃたらぜひ教えてください。

そんなわけで、ライブラリーでこの本を見つけた瞬間に手に取っていたわけです。
本書が国は違えど、写真結婚について詳しく教えてくれたことに感謝です。

訳者の李明玉さんは、京都生まれの在日3世。
この本を読んで、自身の祖父母が日本へ移民してきたことと重なった、と書いておられます。

著者と訳者の略歴

要領よく簡潔に書かれた訳者あとがきもまた、ひとつの家族の物語として読み応えがありました。
李氏が触れているミン・ジン・リー著「パチンコ」は、私が2年ほど前に読んで、深く印象に残っている小説です。

もし、ここまで読んでくださった方がいらっしゃったら、ぜひ、この過去記事も読んでみてください。


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