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東日本大震災とセウォル号事故 あの日の痛み、映画で癒す(「どこにいても、私は私らしく」#9)

2011年3月11日、あの日、私は富山で地震の被災者遺族の取材に当たっていた。2月にニュージーランドで起きた地震で、語学留学中だった富山外国語専門学校の学生12人が亡くなったためだ。当時日本では最大のニュースで、全国から富山へマスコミが殺到し、遺族を取材した。私は地震発生から数日経って富山へ派遣されたため、すでに被災者の家のインターフォンには「押さないでください」と張り紙があるような状態だった。どうすれば会って話を聞けるだろうかと悩み、郵便ポストに手紙を入れてみたが、翌日には「手紙も入れないでください」と、張り出される始末。私が当事者だったらと考えても、取材を受けたくない気持ちはよく分かる。が、取材しないわけにもいかない、という矛盾の中で私自身も精神的に疲弊していた。

そんな中で、東日本大震災が起きた。地震発生時は運転中で、車が揺れた気はしたが、風のせいだと思っていた。先輩記者からの電話で地震が起きたことを知った。声からもその深刻さは伝わってきた。すぐに朝日新聞富山総局に戻り、テレビで流れる津波の映像を見ながら、唖然とした。現実に起こっていることとは、とても信じられなかった。その日の夜は緊急地震速報でスマートフォンが鳴り続け、ほとんど眠れないまま朝が明けると、当時所属していた奈良総局から今度は東日本大震災の被災地へ行くよう指示があった。余震が続く中、心底怖かった。会社を辞める覚悟で、行けないと答えた。

東日本被災地

(写真:東日本大震災の被災地)

いくつかの事情が重なって会社は辞めず、記者としての資格を失ったような重い気持ちで1年を過ごし、震災後1年のタイミングで福島への出張を命じられた。仮設住宅に住む被災者を訪ね、話を聞いて回った。富山での遺族取材の時のように、断られて当たり前と思って向かったが、意外にも断られることは少なく、むしろ家に上がるよう言われ、上がると何時間でも話してくれる人が多かった。周りに亡くなった人が多く、助かった自分たちの話は申し訳なくてできなかったという。家がある日突然なくなるという出来事も本当は大変なことなのに、1万5千人を超える人が亡くなった甚大な被害を前に、自分たちのことは黙っているしかなかったのだ。外から取材に来た記者の私に、1年間我慢していたことを心置きなく話してくれた。放射能が気になって、出張前は現地での食事には気を付けようと思っていたが、ご飯まで準備してくれて「食べて行って」と言われると、断る気持ちにはなれなかった。

漁師の中には、地震直後にわざわざ船に乗って沖へ出たという人も多かった。津波が来ることを予想し、船を守るためだった。漁師にとって最も大きな財産は船だ。押し寄せる津波の中で守りきった船だが、震災後の原発事故の影響で海産物を売れない状況が続いていた。漁師たちは日々どう過ごしていいのか分からないまま1年を過ごしていた。彼らが奪われたのは単に仕事のみならず、人生そのもののように感じた。

東日本大震災から8年が過ぎた2019年、被災地の人たちを追ったドキュメンタリー映画「一陽来復 Life Goes On」が韓国で公開された。在日コリアンの尹美亜監督の作品で、韓国での公開を前に来韓した尹監督に会った。自身のルーツでもある韓国での公開を喜びつつ、複雑な表情だった。「韓国でこの映画を宣伝するのは意外に難しい。韓国では福島のイメージが良くないから」と言う。福島産の農水産物を避けるのは個人の自由だが、福島=原発としか見ないのは、悲しい。被災地で一人一人がそれぞれの方法で前に進もうと努力していることを伝えたいというのが、尹監督の意図だった。

映画の中には様々な被災者が登場するが、先祖代々農業を営んできたという農家の夫婦は、原発から近い場所で避難指示があったが従わず、米を作り続けた。放射性物質の検査では食べても構わない数値だったが、法で販売が禁じられている。「米に申し訳ない。農業しか知らない。当然のことを続けているだけ」と話す。
大震災の後の生き方は様々だ。故郷を離れたことに罪悪感を感じている人もいる。そんなすべての生き方を肯定したくなるような映画だった。


2014年4月16日、あの日、私はスマートフォンで「韓国で修学旅行中の高校生たちが乗った船が沈没する事故が起きたが、乗客は救助された」というニュースを見ながら出社した。当時所属していた朝日新聞大阪本社に着いて、テレビのニュースを見ていると、隣にいた先輩記者が「救助されたというわりに、救助艇が見えないのはなんでかな」と首をかしげた。そういえば変だなとは思ったが、船内にまだたくさんの乗客がいることを知ったのは午後になってからだ。

デスクから「韓国に出張できるか?」と聞かれ、覚悟はしていたが、正式に出張を命じられたのはその日の夜11時ごろだった。慌てて翌朝の飛行機を予約し、当面のスケジュールの調整などでほぼ徹夜のまま韓国へ飛んだ。
ニュージーランド地震の遺族取材とはまた違った意味で大変な取材となった。事故発生時から政府の発表もメディアの報道も錯綜し、船に閉じ込められた乗客の救助を待つ家族と記者たちの間には殺伐とした空気が流れていた。まともに話が聞けるような雰囲気ではなかった。乗客の家族が待機していた体育館では、時折悲鳴にも近い泣き声が聞こえてきた。家族の死亡が確認された瞬間だった。救助を待っていたはずが、死亡確認だけが繰り返し伝えられた。

セウォル号体育館

(写真:セウォル号の乗客家族らが待機していた体育館)

取材環境も劣悪だった。ノートパソコンで原稿や写真を送るのに、事故現場近くの港には使えるような電源がなく、ボランティアで駆け付けた民間人ダイバーたちのテントで電源を借りた。そうやって毎日テントに通っていると、救助のためにやってきたダイバーたちが海に入れないでいることを知った。海に入る許可を求めて海洋警察庁と話し合うが、実際に入れるダイバーはほとんどいなかった。仕事の休みを取って駆け付けたのにセウォル号が沈んだ海を毎日眺めるだけで、「悔しい」と泣き出すダイバーもいた。韓国の大手メディアは大々的に救助活動が行われているかのように報じていたが、私が現場で見聞きしたものとは違った。東京本社には見聞きした通りに原稿を送ったが、韓国政府の発表とあまりにも違ったためか、掲載されることはなかった。

救助された人たちが入院している木浦の病院にも行った。そこで病院職員の一人が私にこっそり声をかけてきて、「実はセウォル号の船長の映像がある」と言う。事故直後に船長が港の臨時診療所で手当てを受けて出ていく映像だったが、未公開のものだった。すぐにソウル支局に連絡し、入手することにしたが、その間に病院内部で気付かれてしまったようだ。日本の新聞社にだけ出るのはまずいという判断だろう、病院にいたすべての記者に同時に動画ファイルが渡された。なぜそれまで公開しなかったのか、病院職員はなぜ外国人記者の私にだけこっそり教えたのか、今考えてもよく分からない。セウォル号事故の取材は、理解できないことの連続だった。何を信じて報じればいいのか、私自身も混乱した。

1週間の取材を終えて身も心も疲れきって日本へ戻った。涙も出ない自分自身に驚いた。が、1年が過ぎ、母にセウォル号事故の現場での話を始めると、涙があふれ出し、止まらなくなった。その時になって初めて、涙も出ないほどショックだったんだと気付いた。涙をいっぱい流した後、少しだけ心が軽くなった気がした。人によって、話したいタイミング、泣きたいタイミングはそれぞれ違うことを知った。

映画を見て、思いっきり泣くことで癒されることもある。「君の誕生日」という映画を見た時に、そう思った。セウォル号事故で亡くなった高校生の遺族の話だ。亡くなった息子の誕生日を息子の友達や親戚たちと偲びたい夫(ソル・ギョング)と、亡くなったことを受け入れられず、誕生日の集まりを嫌がる妻(チョン・ドヨン)、そしてそんな両親の様子をうかがいながら、こっそりお兄ちゃんを懐かしむ妹(キム・ボミン)。劇映画だが、ドキュメンタリーを見ているような気がした。「実際そうかもしれない」と思うような場面が多かったからだ。それは俳優の演技力によるところも大きいが、何よりもイ・ジョンオン監督が長い時間ボランティア活動を通してセウォル号の遺族と過ごす中で見聞きしたことが土台になっていたからだろう。

私はこの映画を通して、事故直後の現場で聞くことのできなかった遺族の心の内をやっと聞けたような気がした。当事者だけでなく、ニュースを見ていた多くの人たちが少なからず心を痛めたことと思う。韓国と日本、両国で起きた災害や事故によって受けた心の傷が、それぞれのタイミングで治癒されることを願いたい。

(ヘッダー写真:セウォル号事故現場にて)
 *文中の写真はすべて筆者が撮影したものです

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成川彩(なりかわ・あや)
韓国在住映画ライター。ソウルの東国大学映画映像学科修士課程修了。2008~2017年、朝日新聞記者として文化を中心に取材。現在、韓国の中央日報や朝日新聞GLOBEをはじめ、日韓の様々なメディアで執筆。KBS WORLD Radioの日本語番組「玄海灘に立つ虹」レギュラー出演中。

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