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編集にまつわる、あれこれ(3)

 編集作業で特に悩んだのが訳注の入れ方です。詩人と訳者と読者が詩を通じて交感し共感し合うためには、詩が生まれた礎となる文化や歴史を共有しておく必要があります。どの言葉にどのように訳注を入れるか。小説などであれば、章ごとに注を入れたり、割り注にしたり、あるいは訳者あとがきや解説で詳しく述べたりすることができます。しかし、詩の翻訳は語りすぎては元も子もありませんし、詩の世界を壊すものであってはなりません。

 詩のシンポジウムに参加したとき、パネリストが「訳注がないと理解が深められない詩が翻訳詩にあることは理解できるが、言葉の横に記号がついていると、その言葉を強調しているようで気になる」と発言され、その発言がずっと頭に引っかかっていました。
 たとえば、長田弘の『世界はうつくしいと』(みすず書房)に収録されている「なくてはならないもの」には、「括弧内・フェルドウスィー『王書』(岡田恵美子訳)より」という注が、「聴くという一つの動詞」には「古い物語の本(ドストエフスキー『悪霊』)」という注が、小さく最後にあります。また、茨木のり子の『倚りかからず』(筑摩書房)に収録されている「ある一行」には「*ハンガリーの詩人 ――ペテーフィ・シャンドル(一八二三――四九)/*竹内好訳」と、2つの注があります。いずれも注をつけた言葉そのものには記号が付いていませんが、記号がなくても十分に詩を読めます。翻訳詩集でも、『わたしは誰でもない エミリ・ディキンスンの小さな詩集』(川名澄編訳、風媒社)では、訳注がやはり詩の最後に記号を付けずに入っています。さらにこの詩集では、詩全体の理解を深めるための訳注も同じように最後に書かれています。エミリ・ディキンスンの短い詩80編を収めた詩集ですが、彼女の静謐な時間に心をうずめることのできる、好きな詩集の1冊です。

 言葉の横に記号を付けないほうが、詩の鑑賞のためにいいのではないかと考え、張碩詩選集でも同じようにしてみようと思いました。張碩詩選集には森や海、宇宙といった自然の詩だけではなく、自然を詠いながらも社会への思いを込めた詩もあります。朝鮮戦争前後のイデオロギー闘争について詠った詩、民主化運動について詠った詩などですが、これらの詩には訳注があったほうが詩の理解を深められます。必要最低限のものに戸田さんに訳注をつくってもらい、記号を付けずに原稿を完成させました。が、私は重要なことを忘れていました。この張硯詩選集は、クオンの大事なシリーズ「セレクション韓・詩」の1冊です。シリーズで統一感がなければならないことに気付き、訳注をつけた言葉ひとつひとつに急いで記号を付けていきました。
 翻訳詩集の訳注の入れ方について、どうするのが詩の鑑賞にとって一番いいのか、引き続き考えてみたいと思っています。
 
 さて、編集の仕事はこうした原稿の整理だけではなく、カバー周りをどうするかなどなど、想像していた以上にやらなければならないことが多いです。クオンの伊藤さんに導いてもらいながら、何とかこなしています。
 解説と帯を詩人の四元康祐さんに依頼しました。いただいた解説は、張硯さんの詩の魅力がいきいきと味わい深く書かれてあり、金承福さんが韓国語に訳して張硯さんに渡したところ、「自分の詩よりいいではないか!」と感動されたそうです。

 いまは、張硯さんの詩に登場する統営トンヨンのアジの群れや牡蠣の殻、サンゴ礁に思いを馳せながら再校のゲラを確認中。タイトルも決まりました。暑さが少しは収まるであろう9月下旬には詩集が店頭に並ぶ予定です。
 この編集の仕事を引き受けたときには思いもよらなかったnoteの執筆ですが、今回が私の最後の担当です。お読みくださりありがとうございました。訳者の戸田さんの執筆は続きますので、どうぞお楽しみください。(五十嵐真希)

張碩さんとは?
1957年生まれ。1980年に朝鮮日報の新春文芸で詩人としてデビューを果たした。その後40年の沈黙を経て、2020年に初詩集を刊行し、2023年に4作目となる詩集を発表した。この4冊の中から61編を選び、日本語版オリジナルの詩選集を制作中。2024年9月末頃刊行予定。

ヘッダー写真:張碩さんが営む水産物会社のInstagramより
@singsings_official
 


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