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改めて、あるウクライナ人との交流について

先日の2月24日で、ロシアがウクライナに侵攻を開始してから2年が経った。

この侵攻によって被害を被った人の心情は察するに余りあるが、仮に直接の影響を受けなかったとしても、自国が戦争状態にある人の心持ちとは、どのようなものだろうか。

戦争によって実際に影響を受けるのは、市井の人々。戦死者の数とか難民の数とか、数によって規模は表現できるものの、その数が伝えられることは非常に限られている。

たとえば、自分自身や大事な人の命や人生。これは数に置き換えると、一人当たりが「1」。でも、その数というもの自体にどんな意味があるのか。自分の命は「1」であると同時に、それがある意味で「全て」でもある。

そんなことを考えながら、2年前に僕が投稿した、あるウクライナ人との交流についての記事を再掲してみようかと思った。ウクライナというものを、単なる数や、占領地の色分けといった概念的なものではなく、血のかよった現実のものとして改めてnoteの場に浮かび上がらせたいと思ったから。

---(以下、2年前の記事を再掲)---

あるウクライナ人との交流

僕には二人のウクライナ人の友人がいる。

今日はそのうちの一人、ドイツに住んでいるウクライナ人との交流について書いてみる(*最近まで僕もドイツに住んでいました)。


彼女はウクライナ東部の出身で、そこはロシアの影響が強い地域。2014年に起こった紛争によって「政府の主権が及ばなくなった地域」まで、わずか30kmほどの距離。

今は、同じくウクライナ人の旦那さんと一緒に、ドイツに住んでいる。子どもはいない。

「私の育った地方は、ロシア語とウクライナ語の二つが話されている。私はもちろん両方喋ることができるよ。でも頭の中で考える時は、ロシア語で考えている」

そんな彼女は、英語を喋ると典型的なアメリカ英語。どうやって学んだんだろうか。


さて、彼女と知り合ったのは、7年ほど前。少し時間を戻してみて、僕と彼女の交流について思い出したことを書き綴っていきたい。特にオチのある話ではないですが。

彼女との出会い

彼女と知り合ったのは、僕がドイツの最初の会社で働いていたとき。その会社に彼女が転職して入ってきた。当時の彼女はまだ30才になるか、ならないかくらいの年齢。仕事のキャリアは浅かったけど、上昇志向が強く、仕事に集中してテキパキこなしていたのが印象的だった。メールをやり取りしても、仕事以外のことは一切書かれていない。

もう一つ印象的だったこと。仕事では「事務的」な彼女だが、話をする時の彼女は、感情表現がとても豊か。コミュニケーションのために、上手に表情やジェスチャーを活用していた。マンガのキャラクターの動きのように、少しオーバーアクションで。でもそれが嫌味に見えず、彼女が伝えたいことは、いつも分かりやすかった。

大柄な人が多いドイツ人の中に入ると、彼女はひときわ小さい。いわゆる「ザ・白人」でイメージするような金髪碧眼ではなく、濃い茶色の髪に、濃い茶色の瞳。顔も少し丸顔。一方で、アジア人ともちょっと雰囲気の違う、クリクリの大きな目と、よく通った鼻筋に、ピンク色のかかった白い肌。そして彼女は、堂々とした仕草と持ち前のオーバーアクションで、同僚たちからとても大事にされていた。

ウクライナ一人旅

ちょうどそんな時に、僕はウクライナへ一人旅に行くことにした。その理由は、特に彼女とは関係なかった。単純に、ウクライナは当時の自分に馴染みのなかった東ヨーロッパに位置している大国。知らない文化圏に行こうとすると、必然的に候補の上位に挙がってくる国だった。

ある時、彼女に「もうすぐウクライナへ旅行に行くんだ」と言ったら、それはそれは喜んでくれた。

「どういう行程か絶対に教えてね、おすすめを教えてあげるから」

そうは言っても、わずか4泊5日の短い旅。首都のキエフと、そこからバスで2時間くらいのチェルニヒウという中規模都市の、二ヶ所だけを巡ることに。

彼女にその行程を伝えたら、「キエフからチェルニヒウ行きのバスが出る場所は、とっても分かりにくいの。迷わないように、バス停への行き方を書いておいてあげる」って言って、懇切丁寧な説明をメールで送ってくれた。

彼女のアドバイスもあって、旅行はすこぶる順調に進んだ。

ウクライナ旅行は、とても印象深かった。しばらく写真が続きます。

↓ ウクライナ正教会

↓ 憂いを帯びた街並み

↓ 街のあちこちに残っていた2014年の革命運動の影

↓ ウクライナ軍の隊員募集中

↓ 核シェルター使用も想定して設計された深い深い地下鉄
通常の2倍くらいのスピードで動くエレベーターに4~5分乗ってようやくホームに到着

↓ 旧ソ連圏らしい驚異的に安くてハイレベルなオペラ
国立劇場で最高レベルのオペラを2時間見て200円くらいだったっけ

↓ 行けども行けども平らな土地

↓ 古い古いトローリーバス

↓ 典型的な東ヨーロッパの農村風景

いま思い返すと、何より残念なことがある。

この当時の僕はまだ、「旅先で現地の人に話を聞く」という自分の旅行スタイルを始める前だった。きっちり現地の人の話を聞いていれば、この旅は全然違った深さと陰影を僕の記憶に与えてくれたに違いない。残念。

お礼の昼食

そんな旅行から帰ってきて、彼女へのお礼がてらに、お昼ごはんを一緒に食べることに。僕の旅先での話を、それはそれは楽しそうにニコニコしながら聞いてくれた。彼女の得意の少しオーバーリアクションも交えながら。

・・・ただ1つの話題を除いては。

今となっては、話の流れは思い出せない。ごく自然な流れで「ウクライナってロシアとの関係が深いよね」みたいなことを言った。

その瞬間。

彼女は「無表情」という名の仮面をかぶった。・・ように見えた。

と同時に、

「ワタシは政治のことはワカラナイ」

と言った。

おそらく彼女は、これまでに同じ表情、同じ棒読みの口調で、同じセリフを数限りないほど返してきたのだろう。

怒っているわけではなく、彼女にとって「型にはまった」対応に見えた。

意味するところは明らか。「私はこの話については一切コメントしない」

僕は一瞬、彼女の言っていることが飛躍しているように聞こえて、うまく呑み込めなかった。

数秒考えてから、彼女にとっては「ロシアについての話題=政治の話題=決して一言も発言すべきでないこと」という構図であることが、自分の中で繋がった。

僕はこれまで、数百人のヨーロッパの人たちと「政治」「宗教」「国民性」について話をしてきたと思う。ヨーロッパではこれらの話題が好きな人が多くて、彼ら/彼女らとの関係を深めるためにキーとなる話題。もちろん、それなりにベースとなる知識をつけた上で、発言にはある程度気を付けているけれど。

そんな風に数百人と話をしてきた中で、これらの話題を拒否されたのは、覚えている限りでは、たったこの一回だけ。

それだけに、この一切有無を言わせない「彼女のNo」を見た瞬間を、ハッキリ覚えている。

もちろん聡明な彼女のことだから、本当に政治の話題が理解できないわけはない。でも彼女が言っていることは、そんな言葉どおりの意味でないことは明白だった。


彼女の有無を言わせない態度を前に、僕はまた旅行中の出来事に話題を戻す。

と、その瞬間に彼女は「無表情という名の仮面」を脱ぎ捨てて、いつもの情感豊かな彼女に戻っていた。

しばしのお別れ

その後数ヶ月してから、僕は別の街の別の会社へ移ることに。

彼女のところへお別れのあいさつに行った。彼女はしきりに「いつか日本へ旅行に行きたい」と繰り返していた。

そして最後に、二人で笑顔のセルフィーを撮らせてもらった。

彼女は撮った後で間髪おかず、「この写真はソーシャルメディアにアップしちゃダメだよ」という言葉を付け加えた。

その声の響きには、あの「ワタシは政治のことはワカラナイ」と同じ、一切妥協のない要求が込められていた。

再会

それから数年が経った、ある年の春。

突然、彼女からメールが入ってきた。

彼女はもうすぐ、当時の会社を辞めて、僕が住んでいた街へ引っ越してくるのだと。ついては、久しぶりに会って食事でもしようよ、と。

「グルジア料理のレストランは、どう?」と彼女から提案。僕も大好きな料理なので、異論があるはずもない。グルジアレストランで会うことになった。グルジアもウクライナも、両方とも旧ソ連だから、ウクライナ時代に馴染みがある様子。

久しぶりに会った彼女は、全然変わっていなかった。いや、以前よりも表情が明るくなっていた、と言った方がよいのか。

それはそれは美味しいグルジア料理を食べて、グルジアの白ワインを飲みながら、近況を報告し合ったり、この街のことを説明してあげたり。

あと彼女は最近、旦那さんと二人で日本を旅行したらしい。「あんなに素敵な経験はなかった!」とクリクリした目を更に大きく開けて、興奮気味に語ってくれた。

「ギフのタカヤマという街の温泉に行って、貸し切りの露天風呂付の旅館に泊まったんだ!料理も素晴らしくて、夢のようだったわ~」

18時半にレストランで待ち合わせて、お店が閉まる23時まで、4時間半。この間、僕たちは、自分たちの口を、喋るために使おうか、食べるために使おうか、飲むために使おうか、お互いに口が一つでは足りなくて困るくらい、ノンストップで喋り続けた。

彼女は相変わらず、表情とジェスチャーを巧みに使ってコミュニケーションするスタイル。ドイツ生活が長くなったからだろうか。前の街にいた時よりも、リラックスして自信に溢れている雰囲気を感じた。

そうやって盛り上がる会話の中で、ウクライナに住む親の話をするときに限っては、そんな彼女の表情が少し曇った。

「うちの親は、2014年から紛争が続いているドンバス地域から、わずか30km西側に住んでいたんだよね。でも、紛争が起こってからは上空を頻繁に戦闘機が飛ぶようになっちゃって。身の危険を感じて、キエフの狭いアパートに引っ越したよ」

その日の別れ際。「同じ街に住むから、またどこかでバッタリ会うかもね」と言っていた。果たして、そのとおりになった。

クリスマスマーケットでバッタリ

次の再会は、季節は移って冬。

街の中心部のクリスマスマーケットを、たまたま一人で歩いていると、突然英語が聞こえてきた。

「え!?なんて偶然なの!?」

っていう声に振り向くと、そのウクライナ人の彼女が、旦那さんと一緒に立っていた。

彼女は、マンガのように目を見開いて、大きく口を開けて、その口を手で押さえて、「ビックリした表情」を表現していた。相変わらずの彼女だった。

でも、更に表情が明るくなったような。


彼女たち夫婦は、いい感じのグリューワイン(ホットワイン)屋さんを探して歩いているところだった。

「手作りのグリューワインを魔法瓶に入れて持ってきたのよ。味は物足りないかも知れないけれど。でもホンモノの材料だけ使ってる。飲んでみない?」

という彼女の誘いに即座に乗って、3人ですぐ隣のグリューワイン屋さんのスタンドへ。一杯目はお店のグリューワインを飲んで、二杯目からは彼女手作りのグリューワインを。

旦那さんには始めて会ったけど、とても優しそうで温厚な人だった。

そんな三人で、会話は弾む。彼女は、転職した今の会社で忙しいけれど、なんとかこの新しい街にも慣れてきた。「これからはもっと自然の中へ、山とか湖とかへ遊びに行きたいなー、ウクライナには高い山なんてないからね」とかなんとか、他愛もない話をしていた。

クリスマスマーケットの真ん中、そこにはみんなの浮き立つような幸せだけが満ちている空間で。


但し、その日は典型的なドイツの冬の日。曇っていて、霧も少しかかっていた。湿気のある寒さが顔にまとわりつく。午後3時くらいで、既に気温は0度ほど。

僕は素朴な味のするスパイスたっぷりのグリューワインを飲んで、体が温まる・・・かと思いきや、この寒さの中では、温まりきらない。ドイツ仕様の超厚手のコートも着ていたけれども、外のスタンドでは、寒さで2時間が限界だった。

「もう寒さが限界。帰らせてもらうよ」

と言って、最後に3人でセルフィーを取らせてもらった。

その時の写真は、まだスマホに入っている。彼女は、前の会社で撮った時の表情よりも、更に屈託のない「100点満点の笑顔」でセルフィーに収まっている。いま見ても、本当にいい写真だ。

ドイツ生活が長くなって、彼女の気持ちがリラックスしてきたのか。

それか、クリスマスマーケットとグリューワインが、そうさせたのだろうか。


もう一つ、違っていたことがある。

前の会社でセルフィーを撮った後には、異論を許さない「写真をソーシャルメディアにアップしちゃダメだよ」という言葉がついてきた。けれど、今回はそんな言葉は無し。

以前と何が違うのだろうか。

彼女が変わったのか。

それか僕に対して少し信頼関係を感じてくれているからなのか。


もしも。あのクリスマスマーケットで、ロシアの話題に触れてみたら、どういう反応が返ってきたのだろうか。ひょっとしたら、もはや「無表情の仮面」はかぶらなかったかも知れない。どういう表情で、どういう答えが返ってきたのか。


そして、まさにウクライナが攻撃されている今。彼女はどういう気持ちでいるのだろうか。


---(再掲終わり)---

如何だったでしょうか。これが、ちょうど2年前のウクライナ侵攻の直後に投稿した記事。

ロシアによるウクライナ侵攻は、世界に大きなインパクトを与え、歴史の教科書に残るだろう。

ただ、「ウクライナ人」とか「ロシアの軍事作戦」といった抽象化した「大きな主語」で全てを示すことはできず、現実には一人ひとりの人生がそこにあり、それらの人生によってウクライナは、そして世界は形づくられている。

そのことを改めて忘れないようにしたい。

by 世界の人に聞いてみた

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