見出し画像

堂本剛・平安神宮奉納演奏の記録と愛について

堂本剛が教祖にみえることがある。

ソロでバラエティ番組に出るとき、ほかの出演者に冗談半分で拝まれる場面を何度か見た。
穏やかな口調と、彼の生き方を表すようにとても繊細で独特な言葉選びがそうさせるのだと思っていた。

剛くんはファンに「自分に依存しないで」と繰り返し言っていて、私は「正しいファン」でいられるように心がけてきた。「悲しくなったらエンドリケリーのライブに来てね」と語りかけてくれるから、ライブを生きる意味にしてもいいかな?ライブのために生きるって依存じゃないのかな?と不安に思いながら、9月3日、初参戦の日を迎えた。

神に見えてしまった。初めて見る本物の堂本剛はあらゆる瞬間が光り輝いていた。
この日のために生きてきたから、演奏が終わった後の私はどうしたらいいんだろうと恐怖を抱えてた。でも、冒頭のバラードの次の「愛を生きて」で揺れる剛くんに恋に落ちて、続く「Everybody say love」で完全に忘れた。感情が一旦ゼロになるくらい心奪われた。
アルバムの加工されたファンクミュージックも好きだけど、剛くんが頑張って取り戻したまっすぐ届く声に勝手に涙が出た。待ちに待った一瞬が終わってしまうことへの怖さより、謎に光る平安神宮への困惑と、戸惑いながらも容赦なく刺してくる光と爆音と、剛くんとバンドメンバーさんの音に浸ることへの喜びが勝った。
メッセージ性の強い後半の「街」や「勃」はもちろん響いたけれど、ファンク2曲でボロボロ泣いて演奏にのめり込めたからこそ曲が頭に入ってきたんだと思う。

推しは神なのか?

あの瞬間は忘れたくないし、演奏中も会場からの帰り道もすべての瞬間を覚えていようと必死だった。普段は心の平穏のため常に堂本剛の音楽を聴いているけど、あの帰り道だけは脳内での反復を優先して、音の余韻を噛みしめながら帰った。

家に帰ってからツイッターで感想を探した。複数の人が虫を払った瞬間に言及していた。「腕についた虫にも優しい剛くん!」と絶賛されていた。
私も見た。ライトを浴びて輝く剛くんが急に目線を腕に落として、ピシっと何かを払って、まあまあな大きさの白い塊が真下にぼとりと落ちた瞬間。流れるような払い方は確かに美しかったけれども。

嫌なものを見ないふりして、見えないものをつくりあげるファンではいたくない。剛くんは優しい人だと思うけれど、私のおぼろげな記憶では虫は垂直落下したし、ジャニー喜多川の件についても少しモヤモヤするところがある。

性虐待を受けていた女の子へのコメントをみて、剛くんはこんなにも優しいのに、どうしてジャニー喜多川のことを持ち上げ続けるんだろうかと不思議で仕方なかった。私が剛くんのファンになる前の2019年、お別れの会でのメッセージをみて気味悪さに慄いたのを思い出した。

それでも、演奏の最後に「愛は自分でつくることができる」と語った剛くんは、誰よりも優しくて力強くて美しかった。セッションのギターソリ、バンドの方の笑顔が眩しくて、全力で音楽してるぞ!という顔をしていて、それを真剣に見つめる剛くんも綺麗だった。
神にみえてしまうけれど、神のような人であって、人間なのだと自分に言い聞かせた。
キーボードの前に移動した剛くんが緊張しているのも伝わってきて、生きているんだ、真剣に音楽に向き合っている人なんだと思った。演奏中に何度も本殿を見つめて、祈るような面持ちでいた剛くんは、不安を抱えながら必死で生きているように見えた。消えそうな瞬間が何度もあった。

だからこそ。
辛いことが多くてすがってしまいそうになるけれど、これからも堂本剛を人間として愛していきたい。

自分を生きるって

「痛みだけは忘れたくないんだ」という歌詞をとても大切にしている剛くんと出会えたから、嫌なものも辛いことも捨てられない自分のことを認められた。ファンクでもバラードでも「自分を生きよう」と繰り返し伝えてくれるけれど、そう簡単にはできないんだってことも、スタートの一曲が肯定してくれている気がするから。私は剛くんのことを信じたいと思っている。

このメッセージは流行っている。演奏前に寄った平安神宮前の蔦屋書店にも、「流行りの自己啓発本!」と題して、「自分の人生って短い、自由に生きよう」「嫌な人からは離れよう」「自分の好きなことをする」という言葉が平積みになって並んでいた。圧が強い。

剛くんの曲も、音楽や彼の優しい語りなしに歌詞単体で見ると苦しいときがある。そんなふうに生きられたら苦労してないよ!と。書店で改めて「文字」で突き付けられて、無理に決まってるじゃん!と放り投げたくなった。おしゃれな本屋に並んでるってことは現代人みんな苦労してんだなと思ったり。

先週は気分が落ち切っていたから、ライブまで生き抜くために「堂本剛の今夜はやり過ごさナイト」とつよしPの8話をみた。そこでも剛くんは「自分を生きる。自分を大切にしてくれない人からは離れたほうがいい」と語っていた。友人に同じことを言われたばかりでずっしりと重くなった。そういってくれる人がいるのは本当にありがたいけれど、「しなきゃ」はしんどい。

「自分じゃないことをやめてみる勇気」とか、彼特有の端の端まで配慮と愛を詰め込んだ言い回しのおかげで、簡単に自分を生きられない人の気持ちにも寄り添おうとしてくれていることは分かる。

8月31日

世間では夏休みの終了に向けて「自分らしく」「逃げていい」とかいうきれいごとが増えて、余計にしんどくて、会場設営の様子を見に行って何とか精神を保った。
剛くんの言っていることもきれいごとなんじゃないかと思う瞬間はたびたびあった。自分は剛くんみたいに心も姿も美しい人じゃないから無理なんだって。

あの日、何度も聞いた「勃」が今までで一番深く刺さったのは諦めがくすぶっていたからだろう。そう思うと、人生の底で奉納演奏と出会えた幸運に感謝しかない。
ピアノアレンジだけどだらけてなくて、BPMは速めで、アルバムとは違ってファンクの歌い方じゃなくて、一音一音が会場に響いていた。

「自分を生きようよ なぜそうぼやかすの? 合わせ過ぎて消えて逝かないで」

失礼ながら「陳腐なメッセージだな」と思っていたときがあった。
剛くん、まっすぐに愛を伝え続けてきてくれてありがとう、ひねくれて愛を遠ざけ続けていた私にもようやく分かったよ。


去年の私が命を救われた「これだけの日を跨いで来たのだから」(平安神宮アレンジ版)は聴けずじまいだった。

京都で過ごす夏は今年が最後だけど、来年もまたここに来ていいってことだよね。まだ生きていてもいいってことだよね、と前向きに考えている。

全編英語詩の「LOVE VS. LOVE」の最後に何度も「大粒の涙が」と繰り返していて、どんな歌詞だったかはっきりとは覚えていないんだけれど、後ろじゃなくて前を向きたくなる伸びやかな声だった。

剛くんが本殿に近づいてみえなくなったとき、空を見上げたら星がみえた。剛くんも何度も空を見ていた。

生きていてくれてありがとう。また会える日まで私も生きたい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?