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わたしの線維筋痛症 回復記①〜幼少期編〜

はじめに。


 線維筋痛症は、身体の痛みを伴いますが、発病のきっかけに精神的なショックやトラウマが影響していることも多いです。この「わたしの線維筋痛症回復記」シリーズは、生い立ちから、発病、そして現在に至るまでを時系列ごとにまとめ、同じ当事者の人たちや痛みに苦しむ方達の参考になるようにと思って執筆しました。病気の経緯といっても個人の人生の一部分なので、中立的に書くことを意識しましたが大分わたしの主観的なものの見方に偏ってしまいます。ですので、参考程度に読んでいただけると幸いです。

幼少期から猫背。基本インドアで過ごす。


 小学校に上がる前から、祖母によく「あなた、背が曲がっているわよ」と言われていた。幼少期から、趣味は絵を描くことと本を読むこと。身体を動かすことは自発的にした覚えがない。物心ついた時から机に向かうことが好きだった。
小学生になりランドセルを背負うようになると、他の同級生たちよりも背が曲がっていることが親や祖父母の目に止まるようになったようだ。ことあるごとに大人たちから「猫背ね。」と言われるが、両親はさほど気にしているようでもなく、運動をする機会も特に与えられることもなかった。
体調は、特に偏食というわけでもなかったが、5〜6歳から便秘がひどく、何時間もトイレに篭るような強烈な腹痛に襲われていた。この頃から、浣腸を使って溜まった便を出すことが習慣化していた。今思い返すと 不自然に感じるのだが、1歳ちがいの弟も同じように激しい便秘持ちだったので家系的な体質もあるのだと気にしていなかった。

女である自分にどこか後ろめたさを感じながら、家庭では常に緊張を感じていた


 ここで少しわたしの家庭環境にも触れようと思う。
 祖父、祖母、父、母、私、弟で当時は暮らしていた。祖父母とは居住空間そのものは分離しているものの、同じ敷地内に住んでおり、1日に何度も我が家に来るので事実上同居のようなものだった。

 我が家は当時、土地を所有しており地主であったこともあって、祖父は「後継ぎ」「資産の分配」といった話題を幼いわたしと弟の前でもかなりの頻度で口にしていた。そして、彼がよく口にする「後継ぎ」という単語の中に孫でかつ女である私が含まれないことに、当時からわたしは気づいていたのだった。「男」である弟と、「女」であるわたしの扱い方がはっきりと違う。祖父からの愛情の差にショックを受ける日々。
 小学校に上がる頃から、私は自分が「女」という性別に生まれついたことに後ろめたさや負い目、引け目を感じるようになる。そして、「男」でなくても自分は優秀なのだとわかってもらうために、両親、そして祖父母に「女」である私自身を認めてもらわなくてはならないという強迫観念が、幼い私の心の片隅に存在するようになるのだった。

小学校でいじり?いじめ?を体験する



進学した小学校は、少ない在校生(1学年に30人もいないくらい)でクラス替えもなく、毎年、顔見知りばかりなのにもかかわらず、まあ荒れていた。都心部に位置していることもあってか、みな都会の子供ならではのプレッシャーをかけられていた。親の高い期待を受けて、週にいくつもの習い事をさせられ、小学校低学年から塾通いが始まっているのである。クラスの何人もが、途中で私立の小学校や越境して隣の学区のよりハイレベルな小学校に転校するような環境だった。

そんな競争に同級生たちが幼い頃から晒されている中、わたしは一人で黙々と好きなことをしているのが好きなぼんやりとした子供だった。自己主張が得意でなく、自分に自信がない。いつの時代もそんな子供はストレスの溜まっている人間のはけ口にされる。 

クラスの強気な女の子にしばしば身体を叩かれ、殴られるようになった。

 この当時について今も思い出そうとすると、急に頭に霞がかかったようにぼんやりする。3年前までそのことをすっかり忘れていたくらい、わたしの記憶の中から消され、無かったことにされていた思い出。いじめというほど辛辣なものでは無かったが、(フツーに会話はしていた)が、いじりというには軽すぎる。
幼いわたしは「友達なのに、なんでぶってくるのだろう」と思いながらも、友人関係を継続するしかなかった。嫌なことを嫌、と伝えるのが人一倍、苦手な子供だったのだ。 

幼少期のトラウマと疾患の関係について

 なぜこのような辛い出来事について言及するのかというと、トラウマ的な経験が身体の痛みや検査しても原因のわからない諸症状につうじている可能性があるからである。

 『身体に閉じ込められたトラウマーソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアー』では、偏頭痛、甲状腺機能亢進症、疲労、慢性疼痛、そしてひどい月経前症候群(なお、現在では線維筋痛症と慢性疲労症候群と診断されるだろう、と作者からの注が添えられている。)に悩む女性を、ソマティックエクスペリエンシングの理論を用いたカウンセリングによって回復に導いている(同書p.24)

このセッションの間、彼女は自分が4歳の子供に戻って、「ありふれた」扁桃炎摘出手術のためにエーテル麻酔をかけようと彼女を押さえつけている医師たちから逃げようともがいている悪夢のようなイメージを見ていた、と。そのときまでこの出来事は「長い間忘れ去られていた」ものだったという。まったくもって驚くことに、これらの奇妙な一連の展開がナンシーの人生をも転換させることになった。それまで抱えていた症状の多くは著しく改善し、中には消失したものもあった。(p.26より引用)

『身体に閉じ込められたトラウマーソマティック・エクスペリエンシングによる
最新のトラウマ・ケアー』より引用

 
 そう、彼女もまた幼い頃のトラウマに囚われ、そこから生じる身体の不調に悩まされていたのだった。

 たいていの人はトラウマを「精神的」な問題、さらには「脳の病気」と考えているが、トラウマは「身体」にも現れるとピーター・ラヴィーン博士は述べている。
 ショックが強かった故に自分の中に閉じ込めてしまった記憶。
 そのような辛い出来事がトラウマとなり、身体の不調に関連している場合は多い。自分の病気について振り返る際に、病気には関係しないと思っていた出来事も、病気の原因になっていることがある。
 
なお、詳しくは『身体に閉じ込められたトラウマーソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアー』を参照していただきたい。

 わたしは、家でも小学校でも緊張感のある生活を送らざるを得なくなってしまった。身体はこわばり、不安を常に感じるようになる。唯一安心できるのは自宅のトイレだけだった。

無理をすることが前提の思春期


紆余曲折あり、中学受験をした。ノリとテンションではじめた受験だったので案の定受験に失敗し、希望していなかった中学に通うことが決まった。

まあ、うまくいくはずがなかった。
しかし、当時は第一志望の学校に受からなかったことで「敗北」という烙印が自分に押されたように感じて、ますます「勉強して成果を出さなければ」という強いプレッシャーを感じるようになった。ここから少しずつ色々なことが狂っていく。
 その日の授業で使った教科書をたくさん詰めた通学カバン。おそらく5〜6kgはあるものをわたしは毎日背負っていた。右肩が痛くなるくらいまでテキストを詰め込んで、毎日担いで1時間弱の道のりを通学した。猫背は相変わらずひどく、中学一年の頃から同級生に「○○ちゃん、猫背じゃない?気をつけた方がいいよ」と言われるくらい。

 この頃から、自分は他の子よりも疲れやすいのでは?と感じるようになる。美術部という特段とハードでもない部活にも関わらず、家に帰るとクタクタで、宿題にも手がつかず、週に1度の休みの日には外に遊びにいけず、家で10時間以上寝て過ごすようになる。
 私立の中学だったので、土曜日の半日登校を含め週6の通学がとにかく体力的に厳しく、週の後半は疲れてヘロヘロになりながらなんとかやり過ごしていた。
 無理をしないと乗り切れない、だけど、それが普通なのだと思っていた。

ひどくなっていく猫背を見かねて、整体に…


 中学3年の頃になると、猫背はますますひどくなっていった。

 運動を全くしていなかった上に、PCやケータイを触る時間が増えていったのもひとつの要因だと思われる。受験をして入った中学ではなかなか馴染めず、ヲタクグループに属していた私は、日々のストレスの鬱憤をインターネットの電子空間で晴らすようになった。
 当時はmixiが流行っていたこともあって、同じように学校に馴染めていない同世代と繋がるのは容易かった。インターネットの世界にどっぷり浸かるようになり、暇さえあればガラケーでマイミクの更新をチェックするようになる。日曜日や夏休みなどの長期休暇では、1日10時間以上PCの前に座っていることも当たり前。現実の世界を否定するために、ずっとわたしはPCの液晶の前に座っていた。夏休みなんて、ブラック企業で働くサラリーマン以上に液晶を見つめていただろう。腰と首が痛くなるまで、寝る時間以外はほとんどPCを触っていたのだから。
 この頃から、猫背は加速度的に悪化していくことになる。
 そして、ついに、わたしの曲がっていく背骨を見て、祖母が近所の腕ききの整体師に通うように提案する。
 ここからがまた体調のターニングポイントである。

 本当にこの記事を読んでいる人に言いたいこと、それは第一に「整体・カイロプラクティックに通うな!」である。
 
なぜなら、私がこの整体に通い、簡単に苦痛がとれることに慣れることで、今後取り返しのつかない状態になるからである…。

簡単に痛みが取れるということ、その沼


 大学受験を意識し、机に向かう時間が増えるようになると、いよいよ猫背の弊害が日常的にも出てくるようになった。
 猫背であるが故に、無理な姿勢を続けて座っていると首や腰が痛くなる。
高校2年生にして、腰痛と首の痛みで整体により頻繁に通うようになった。猫背の矯正で何度か通っていた整体に通っていたのだが、そこの整体師さんの腕が良かった。(と、当時は思っていた。)施術をすれば魔法のように痛みが取れたのだ。これは癖になる。首も、腰も、背中が痛いのだって、整体院のベッドで寝ているうちにあっという間に治る。
 当時のわたしにとって、整体師の先生は身体を知り尽くした神様のような存在だった。何度も、痛みを感じたらそこに通った。

 おそらく、月に1〜2度は通っていたのではないだろうか。高校2〜3年、そして浪人している間はかなりお世話になっていた。

大学進学〜そして発病へ2013冬〜


紆余曲折の浪人生活を経て、無事大学に入学。晴れて夢の大学生である。
しかし一方で腰痛は悪くなるばかりだった。大学の授業でも、たびたび腰が痛くて座っていられないこともあり、数ヶ月おきに整体に通っていた
 そしてついに運命の日。その日も腰が痛く、なじみの整体に通った帰り道。道端に落ちているゴミを拾おうと、かがんだときのこと。その時の私は厚底のブーツを履いていて、腰をぐいっと曲げた瞬間に転んでしまったのである。
 
 ゴリ、と嫌な音がした。

そしてその直後から耐え難い腰の痛み、体の筋肉全体が張るような痛みが走った。
 その日の晩、わたしはあまりの腰と背中の痛さで一睡もできなかった。

 そう、この日から繊維筋痛症との生活が始まるのである……。


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