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(覚え書き)「変わる」ことの具体と抽象

※おことわり
今回の投稿には抽象的ながら加害と被害について触れています。


野田俊作「性格は変えられる アドラー心理学を語る」創元社を読んだときに印象に残っている記述がある。
性格とは生き方であり、そのマニュアルである。
これまでの人生で得た体験、学習、情報を統合させて構築されたものだ。
素朴ながら重厚なマニュアルを元に、私たちは思考して行為する。


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加害者が恋人や婚姻関係にあるものをはじめ、周囲に「変わってみせる」という。
「かならず変わる。絶対に変わってみせる。お前のために」と言い、涙を流したり頭を地面に擦りつけたりして「信じてくれ」と頼みこむ。
ドラマでもなかなか見ることのできない、加害者の謝罪のいかにもな言い分だ。

家庭内暴力を行っていたが、いままでの自分のやり方が通用しない形で相手が逃避や告発を選び、いよいよ白旗をあげるほかになくなったとき。
やっと加害者が選ぶという印象の強い言い分である。

被害者は、こうした相手を受け入れるのか。
許すのか。相手に従うのか。

ドラマで見かけるときに失笑する人もいるだろう。
こんなのあり得ないと冷笑する人もいるだろう。

しかし、現実は異なる。

相手にほだされて加害者の提案を受け入れる人はいる。
あるいは相手の脅迫や加害に怯み、受け入れざるをえない人もいるだろう。
他に生きる術がなかったり、居場所がなかったりして、選ばざるをえない人もいるかもしれない。

このとき、具体的に加害とはなにか。

殴る、蹴る。罵倒する。嘲弄する。経済的に収奪する。浮気や不倫を繰り返す。賭博などにのめりこむ。飲酒や喫煙、薬物や買い物、過剰な労働やスポーツなどへの依存を継続する。無視する。つけ回す。脅迫する。一方的な長文のメッセージ(手紙、自作の歌、メール)や大量・頻度の多い一方的なプレゼントなどを送りつけてくる。

他にもある。種々様々だろう。

そうした具体的な加害を受けてきたはず。
だから修復を選ぶはずがない。
無関係のときにはそう思える。

しかし、現実にはどうだろう。
長い時間をかけて過ごしていたり、こどもができていたり、たいへんな苦労を経験してきたりすると? あらゆる労苦が、これまでの体験が、いまを手放しがたい理由になってしまう。

「この人には自分しかいないんだ」
「自分にはこの人じゃないといけない」
「他にマシな選択肢がない」

このようなことを強く思い、継続を選ぶ。
こどもがいる場合には「親として必要」だったり「収入に不安」だったりする。
男女の労働条件の差は深刻だ。
性別は強く、他に年齢など様々な理由で買いたたかれる。
年々、その傾向が増している労働で、大変な困難を伴うのが容易に想像できる。

生活を人質にされると、容易には選べなくなってしまう。
容易に選べないくらい不安が伴うからこそ、離縁して仕事を始めてみたら、そのほうがずっと楽だった、案ずるより産むが易しだったと発信する人もいるのだろう。

自分の生活のみならず、こどもの生活まで人質に取られると?
もう生半可なことでは選びにくくなる。

やむなく加害者と過ごす以外の選択肢を、選ばない・選べないものとして排斥する。
周囲の助言も、より好ましい相手や居場所が見つかっても、現状を維持する。維持してしまう。
自分が苦しむばかりか、自分にとって大事な縁やなにかが傷つけられることがあってもなお、選択を維持するケースもあるだろう。


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この例の場合、変わるとは?
変えられるとは、なんだろうか。

だれにとって、どういう意味を持つのだろうか?

フランクルの「夜と霧」をふり返るのなら?
変わることに値する具体的な言動とは、いったいなんだろうか?


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今回の例えで言うのなら、登場人物はふたり。
加害者と被害者である。

加害者の変わるとは、なにか。
この被害者にとって、加害者に期待することはなにか。
それとは別に被害者が自分の今後に期待するものはなにか。

では、加害者にとって被害者に期待することは?
加害者が自分の今後に期待するものはなんだろうか。


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これらの問いに向けた具体的な行動とはなにか。
具体的な目的とは、いったいなんだろうか?

傍目八目。
周囲に被害者がいるときには、やめておいたほうがと思える。

しかし当事者になると、これがむずかしい。
これらの内容を並べて徹底的に検討することができる状態にない。

被害を受けているときは特にそうだ。
また、加害をしている側も同じだ。
自分を見つめるどころではない。またはその選択肢がないか、あっても行えないほど余裕のない状態に陥っている。被害者は加害者の行為によってだ。


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目的や結果に意識を奪われているときほど、飢餓感に苛まれている。
そして飢餓感に苛まれているときほど、具体的な行為を読み取ることが困難になる。
憔悴しつづける。休まることがない。
心身が平静なときとは異なる状態に置かれている。

食事や睡眠、運動や入浴などが満足に行えない状態に陥っていることもある。

そんな飢餓状態で、加害者と被害者がそれぞれに自らの飢餓を慰撫できる「変わる」とは? 「変える」とは。
具体的にどんな行為を意味するのか。
目的とは別に、現状を元に戻して維持するラインとは、具体的にどんな状態だろうか?


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「変わる」という単語はあまりにも抽象的だ。
問題は「変わる」にあたる、具体的な内容である。
具体的な行為である。
具体的な目的であり、具体的な経緯である。

とりわけ意識をし忘れてはならないのは「変わる」とは状態であり、運動であり、継続であるということだ。
「これをすれば達成される」といった、ゴールテープの存在するものではない。

恒久的に維持されるものである。
終わりのないマラソンなのである。


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であるならば、今回の例でいう、ふたりが求める「変わる」とはなんだ。むしろ「変わりたくない」のはなんだ?

過去はなくならない。
過去にしたこと、されたこともなくならない。

そのため、過去の傷も、だれかにつけた傷もなくならない。
そうした体験に紐づく自分も、相手も、消えることはない。

あらゆる加害も被害も、消えることはない。
常に現在に影響を及ぼそうとしつづける。無意識に。ときに意識的に。


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人として捨てられない過去は生きていくかぎり増えつづける。

どうにもならないのに捨てたくてたまらない過去ばかり増えているとき、私たちに選べることは、そう多くない。

それでも死なないかぎり、人生は続く。

生きていくうえで、今回の例でいう加害者と被害者それぞれが「変わる」うえで、問いの答えとはなんだろうか?

答えとは具体的な行為であるが、ではそれぞれの問いにおける行為とはなんだろうか?


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人は変わるのか。それとも変わらないのか。
変わるとして、性格をどこまで「変える」のか。
個人の、集団の性格を、どこまで「変えたい」のか。
逆に個人の、集団の性格をどこまで「変えたくない」のだろうか。

具体的な行動としてみるなら、どこまで行うだろう。
性格とは生き方であり、そのマニュアルである。
「変わる」として、具体的にどこまで行為するだろうか?

継続と維持には注視したい。
「変わる」ことの維持、ゴールのない継続。

既存の生き方、そのマニュアルを「変える」のだ。
どこまで手を入れるのか。
具体的に、なにを、どこまで。

自覚する部分と、自覚では足りない部分とがあるだろう。
変えたい部分と、変えたくない部分もあるだろう。
手間をかけたくない、ここまでは変えたくないこともあるだろうし?
そこまで変える必要があるのかと思ったり、変える術がそもそもわからないこともあるだろう。

変えることも、変えないことも、変えたいことも、変えたくないことも、自分の過去と強烈に紐づく。
のみならず、生活や今後を鑑みる。

そうなると具体的な行動をどこまでするのか。
ゴールなく、継続と維持をどこまでするのか。

変えること、変わることにおいて、これらは実態を探るうえでも、行ううえでも、欠かすことのできない要素になるのではないだろうか。

よい一日を!