(事実は)経験しなければ分からないとはどういことか③
光や色、音、匂、味、触覚等を知覚し、そこから得られる心象だけが、現前する対象(モノ)の全てとも言える。
あらゆる観念は知覚から(二次的に)生じている。
それだけが独立して、知覚より先に存在することはない(知覚=事実と近い意味で使っています)。
知覚より明晰で、ハッキリしているものはない。
たとえば、色の知覚、音の知覚を混同してしまう、などと言うことはない。
曖昧で、混乱した知覚(事実)というものはない。
そうは言っても、幻覚だったり、見た目の大きさ(遠近)だったり、知覚も曖昧に感じられるかも知れない。
けれどもそれは、知覚という言葉の使われ方について、(状況を)区分していないから。
まず、私の内部に生じる知覚(心象、クオリア、六識)については、いかなる誤謬も、曖昧さも混乱もない。
○は△に見えない(幻覚でも○は○に見える)。
誤謬や曖昧さや混乱は、見た目の大きさや形などの観念が、(実際にも)その対象に属するものとして、私(思考)が紐付けた(判断した)時のみ生じる。
月の大きさは五円玉位に感じる(事実)。
月の大きさは実際にも五円玉位だと(思考が)判断すると、ここには誤りが含まれる。
なので、知覚(事実)が明晰でハッキリしていると言うとき、それは(知覚が)心に引き起こす心象のことを指している。
それらの知覚をもとに、思考が様々な判断(紐付け)を行ったとき、そこには誤謬や混乱が生じる。
私が知覚する世界と、判断(科学)の世界は様相が異なる。
太陽は東から昇って西に沈む。
大地は長い間、動かないもの、変化しないものの代表だった。
知覚の世界において、それは今でも変わらない。
判断(科学)の世界では、大地(地球)が太陽の周りを周ることに変わった。
多くの人は、判断(科学)の世界の方が正しいと感じている。
けれども、判断(科学)の世界は、新しい知見が得られると変化する。
それらは現時点における経験(知見)にもとづく「判断」に過ぎない。
判断には、曖昧で混乱したものが含まれる。
明晰でハッキリした知覚(事実)の世界に、誤謬や混乱はない。
人の数だけある主観的な世界が、事実とは思えないかも知れない(他人の世界はないんだけど)。
客観的な判断(科学)にもとづく世界の方が、絶対的で正しい気がする。
逆説的だけど、その様な経験に伴う判断の世界の方が、相対的で、曖昧で、混乱を含んでいる。
(科学を否定しているのではなく、これはこれで科学的に正しい)
事実は、自分自身で確かめられるものだからこそ、どの時代、どの場所、どんな境遇に生まれようとも、やり方さえ分かれば、誰もが等しく探求できるモノでもある。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?