我や意志はなぜあると感じるのか
集団の中ではある一定のプログラムに従って思考するよう馴らされていく。
さまざまな観念やイデオロギーの形成、普及によって、思考の画一的な枠が出来上がる。
ひとたび枠組みが出来上がると、その枠に従ってモノゴトを考えはじめる。
画一的な思考の習慣に導かれていく。
人々の情緒や感情までも画一化されていく。
多くの人は習慣の中で生きている。
習慣はプログラムと似ている。
習慣の中で生きる人々と、プログラムで動く機械と何が違うのか。
そこに個人として我は見いだせない。
個人の意思はあるようでない。
なぜ「我」や「意思」があると感じるのか。
思考は習慣によって生じた結果に主体や客体を与える。
思考は結果の認識に意味を与える。
はじめは意思による行為に見える。
行為が繰り返されると習慣になる。
習慣になった行為に意思はあるか。
歯を磨く。
その行為の結果に対し、思考は(後付けで)意味を与える。
私(主体)が磨いた(行為)。
行為(習慣)に意味を付けなければ主体や客体はない。
その様な働き(変化)が生じただけ。
その行為の中に私はいない。
ちなみに意思も意味に過ぎない。
意味も「ある」もの。
実際に触れられるもの、触れられないものの違いはない。
あと私ってなんだろう。
ただの記憶、情報、意味にすぎない。
↓自我については以下リンク先にも書いてます
↓結果に結びつかない習慣に意味はあるか?
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