
はじめから何ら問題がないはずなのに、なぜ禅や瞑想をする必要があるのか
「あるがまま」で問題が生じないのに、そこから離れることで苦が生じる。
離れるということは、私=思考という分離した自己をたて、その私が経験の主体であると思い込むこと。
原因がはっきりしているなら、それを解消するだけ、「あるがまま」とか「本来の面目」とかに回帰すれば良いという理屈になる。それが非常に難しく感じるのは、それを行おうとする正にその私こそが、そもそもの問題の原因であるから。
自らが自らを解消するという、自己言及的で、矛盾を孕んだものになってしまう。その様な矛盾した取り組みは、前提がそもそも誤っているから破綻しやすい。
私=思考であるという思い込みはあまりにも強固で、この思い込みを解消するために、自己探求(禅や瞑想など)を行う。頭や理屈だけではなく、心から納得するためには、自らそれを確かめる、実証してみる、しかない。どうしても理屈が気になる人は、自分が一番興味のある、疑問に感じていることについて、深く考えてみる(自己に参じる)。
そこが解消する前に、坐禅や瞑想をするだけで良いと言っても、必ず、「こんなことをして何の意味があるのか」「結果を出すことが出来るのか」と疑問を挟んでしまう。確認してみる、実証してみる対象は、人によって様々だから、それぞれ異なっていても問題ない。
いろいろなやり方があるのは、それだけいろいろな疑問があるからで、自分にあったやり方を見つければいいと思う。気になっていることが一番引っ掛かっている所だから、そこをとことん探ってみる。自己探求に繋がるのであれば、広義において(生活の)あらゆるものが禅や瞑想と同じくなる。
解ったと感じても、また解らなくなることもある。一瞥だけで全てが落としきれるかというと、そうでもない。四向四果、十牛図、いろいろあるけど、一気に進む人、進み戻りしつつ、ゆっくり進む人がある。
あと、解った人はこれやあれはしない、言わない、とか、そういう基準は何の「意味」も「なさない」ということが解る。お酒を飲む人もあれば、引き続き禅や瞑想をする人もある。
これとそれとは、はっきり違うし、そこに拘ることは在り得ない(できない)し、その様なポーズだけが禅や瞑想では、先にも言った通りないから。
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