なぜ意図を働かさざるを得ないと感じるのかについての考察
いまの様子、あるがまま、いまのままで良いなら禅や瞑想をする必要はないはず。
それでもここではない、どこか別の境地を求めてしまう。
その様な意図を働かせずにいることは困難に感じる。
生命ならば「生きろ」という衝動(動機)に必ず突き動かされている。
生きるためには、絶えず外界の様子を観察し、判断(選択)しなければならない。
五感で感知した内容(知覚)を、苦か、苦ではないかの基準でによって振り分ける。
あらゆる対象が私を刺激するたび、ある特定のパターンの反応(想念)を返すよう、条件付けられている。
(遺伝的な行動パターンや後天的な習得によって、一番生存率の高いと思われる行動を選択する)
判断しなければ外敵に食われて死ぬ。
モノを見れば見えるし、(対象)からの刺激があれば思いが生じる。
この最初の思い(想念)にもとづいて、二番目の想念が生まれ、それに基づいて三番目の想念が生まれ、という様に無限に続いていく。
ある程度の観念が出来上がると、異なる観念同士を結び付け、まったく新しい観念を想像することも出来る。
こうした繋がりのうちに、私の観念や知識が成り立っている。
私が持っている様々な観念が何であるかを知りたければ、上記の過程を逆に追跡するだけでいい。
そうすれば必ず最初の単純な観念(知覚)に行き着く。
知覚は全ての観念の、この世界(私)の根源的な素材と言える。
縦横無尽に展開され、一つの実体があるかの様に構築された観念の束(思考)を、その生成過程を逆に折り畳んでいくように単純化していく。
立体から厚みを除けば面になり、面から幅を除けば線になり、線から長さを除けば点になる。
ただ、折り畳んでいくやり方は、最後が分かりづらい。
最後(点)だと思っていたら、まだ線だったりする(自分が残っている)。
けれども思考の働きを一つづつ順を追って遡っていくから、知識として理解しやすい。
無から点になる過程で知る方法は、根こそぎだから残り物が少ない(一発で終わりやすい)。
ただ、やり方を説明できても、なぜそうなのか分かりづらい。
自分は残りづらいけど習慣(考え方のクセなど)が残りやすい。
どちらの方法が合っているかは人に依って異なるから、どちらが優れた方法というものではない。
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