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科学が哲学を殺す間に

90年代から00年代にかけて
本を読むことが好きで良く読んだ。
娯楽小説に始まり、国内外の古典文学、哲学書などいわゆる難解な本も紐解くようになり、1ページ、ひとつの文章に向き合ったりして、頭の中でたくさんのことを考え、思いを馳せた。
それは過去の賢人たちの目線で物事を覗き見る喜びだった。
とても素敵な時間だったと思う。

さて時は流れ、2023年。
iPhoneが生まれ(そういえばずっと昔に、進化した人類にアンテナが生えると予見した哲学者がいた)、
SNSが普及し、アルゴリズムが進化し、AIが爆速で成長した。
科学はタイムパフォーマンスを高める。
コマンド入力ひとつで、ボタンひとつで、課題を解決するように進化する。
科学の定義として「実証性」「再現性」「客観性」とある。
まさに科学自らの進歩を糧にさらに発展が約束された構造なのだ。
一方、哲学に関してはその命題において同様の定義は該当しない。
(※考察のアプローチとしては数多存在するも成功しているようには思えない)
哲学とは「人が世界の説明を試みること」なのだ。
であれば学士でしかない私でも即席の哲学の徒となることは可能なはずである。
というわけで以下駄文をお許しいただきたい。

私は今手元で「『いき』の構造 九鬼周造」をパラパラとめくっている。
久しぶりに読む哲学書で、学者でもないのにこんな陰キャな本を読んでるのも笑えるなぁとコーヒーを啜りながら。
だが次の瞬間、ベルクソンからの引用の一文が私の心を捉える。
「薔薇の匂いを嗅いで過去を回想する場合に、薔薇の匂いが与えられてそれによって過去のことが連想されるのではない。過去の回想を薔薇の匂いのうちに嗅ぐのである」
さらに、本の冒頭にある、「部分の説明」から「全体の説明」にたどり着くことはできないという合成の誤謬に対する指摘。
そう、これはまさに科学についてではないか??
AIに対する論争。多くの人たちは勘違いしている。あるいは気がついてはいるが言葉でその根本的な誤りを指摘できずにいる。

元来、人類は知識や経験の集積を濾過して「科学」を抽出した。
「科学」にとっての不純物とは何か?簡単だ。
実証性のないもの、再現性のないもの、客観性のないもの、だ。
不純物が入った論文や実験が相手にされないのは研究者の人たちが良く知っているだろう。

だが、
人類が「より良き未来」を目指すとするなら、
まず、良い未来とは何かを定義する必要があり、
良い未来を定義するのは当然人間であり、それを考える人間は「科学」のためのフィルターを外し不純物を含めて全体を考える必要がある。「実証性」「再現性」「客観性」しか見えない眼鏡では全体が見えるはずがない。
では、世界全体に対する我々の「知」は進化したか。

その答えは2023年において
「タイムパフォーマンスの悪いことに時間を使えるか?」という問いに対する多くの答えと同じだろう。
というわけで、SNSも開かず、カフェで時代遅れの哲学書を読み、
読書感想文のようなものを書いてささやかな抵抗を試みる。
科学が哲学を殺す間に。


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