プロジェクトT
2023年5月24日、惜しまれながらこの世を去ったティナ・ターナー。彼女の輝かしい実績の裏には、伝記で明らかになっている壮絶な私生活があった。仕事のパートナーでもある夫の暴力、私生活での多くの逆境を乗り越え大きな成功を収めた。これはカムバック賞どころではない、偉大な復活劇である。(田口トモロヲの声で)
シンガーとしてのティナのキャリアは、アイク・ターナーのバンド、キング・オヴ・リズムのシンガーとしての活動から始まる。その後、デュオの名義で売り出した「プラウド・メアリー」などがヒットとなり、成功を収めている。
最初は、兄妹のように仲が良かったというティナとアイクの関係、やがて男女の仲へ・・・
そんなアイクとの生活が壊れ始めたのは結婚から7年経った頃だ。
1976年7月のある日、ダラスの公演先に向かう途中、たびたびの暴力に耐えかねて、ティナは着の身着のままアイクから離れた。持っていたのは36セントとガソリン用のクレジットカードだけ、ダラスのあるホテルにたどり着いたティナを支配人が最高級のスイートルームに案内してくれた。そこでティナは友人のアン・マーグレットに電話をかけ、航空券を手配してもらいロスへ向かい、逃避から25日後、裁判所に離婚の訴えを起こした。
アイクが探し回っている間、ティナはアンと約6か月一緒に暮らすことになったという。
中止されたショーの保障など、一年間におよぶ法廷でのドロドロの争いを経て、1978年に離婚が成立するもしばらくはスランプがつづく。
80年代に入り、サンフランシスコのホテルやニューヨークのリッツで公演を行うも復活まではまだまだ。
オリヴィア・ニュートン・ジョンやロッド・スチュワート、ストーンズらの力を借り、徐々に立ち直っていったが、大きな復活劇のきっかけはB.E.F.(British Electric Foundation)のアルバム制作に協力して欲しいと要請を受け、そこでヘヴン17のメンバーらと出会った事だった。
B.E.F.参加で手ごたえをつかんだあと、イギリスとヨーロッパでの短期間のツアー、再びリッツでライヴを行った。その結果、デヴィッド・ボウイの後押しもありキャピトル・レコードと契約を勝ち取った。
1983年、ティナはヘヴン17のマーティン・ウェアーのプロデュースで、アル・グリーンのカバーである「Let's Stay Together」をシングルとしてリリース、UKチャートではオリジナルを上回る6位、ビルボードでは26位を記録し、完全復活への足掛かりを作った。
シングルの後はアルバム、キャピトル初のアルバム制作にあたってマネージャーは何人かのプロデューサーを集めていた。その中のテリー・ブリテンがグラハム・ライルと作った曲にあの「愛の魔力(What's Love Got To Do With It)」があったのだ。
ティナはデモテープを最初に聞いた時、気に入らなかったようだが、テリーはアレンジを変えてティナの好みの曲にすると約束、こうしてできあがった曲は、幸先よくUKチャート3位、84年9月にはビルボードでは1位を記録、1984年のビルボード年間チャートではプリンスの「When Doves Cry」につづき2位に輝いた。愛の魔力ならぬアレンジの魔力と言うべきだろうか・・・そんなシャレを言っている場合ではない、「愛の魔力」は1985年のグラミー賞でも最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞を獲得、アルバム「Private Dancer」も世界的に大成功を収めた。
完全復活したティナはその後もヒットを連発、1991年にアイク&ティナ・ターナー名義で、2021年にはソロ名義でロック殿堂入りも果たしている。
一方では、映画「マッド・マックス/サンダードーム」にも出演し、後に全米黒人地位向上協会から主演女優賞を与えられている。
一方のアイクは、2007年12月12日、カリフォルニア州サンディエゴ郊外の自宅で亡くなっている。享年76歳。
死因は公表されていないが、コカインの過剰摂取と、肺気腫と心臓血管疾患も長く患っていた。
アイクの死に際してティナは、代理人を通して簡潔な声明を発表した。
『アイクとは30年以上、いかなる連絡も取っていなかった。これ以上何も申し上げることはない』