見出し画像

神のみこころによる Ⅱコリント1:1 

2023年10月8日 礼拝

Ⅱコリ1:1
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。

タイトル画像:Gulf of Corinth from Acrocorinth , AndrewSmith , commons.wikimedia.org, CC BY-SA 2.0 

はじめに


しばらく、聖書講解から離れていましたが、コリント人への手紙第二を取り上げて紹介していきたいと思います。パウロが記したこの手紙は、混乱するコリント教会に充てて書かれたものですが、第一コリントの手紙でコリント教会に対して問題の矯正を図るべく書かれたものですが、結果は改まるどころか、解決されないという状況に陥っていたようです。しかし、パウロは自分が産み、育てた教会の状況を看過できず、第二の手紙の執筆を行います。今回からしばらくの間、コリント人への手紙第二を取り上げ、パウロの真意と今の時代における私たちへの課題と適用を学ぶ機会としたいと思います。

Ⅱコリント人への手紙について


この手紙を書いたのは、使徒パウロになります。
パウロはAD55年前後にコリント教会の混乱を収めるためにⅠコリントの手紙を書き送ります。

しかし、コリント教会にあった問題と混乱が収束したかどうかは不明でした。その後パウロは、コリント教会の問題が収まらないとの情報をエペソで聞き、解決のためコリントに向かいますが、思わしくない結果に終ります(2:1,13:1)。

落胆したパウロは、エペソに戻り「涙ながらに」コリント教会に手紙を書き(2:4)、手紙をテトスに託します。

エペソでの働きが終わり、パウロはトロアスに向かいます。

トロアスは伝道するための最有力候補地でしたが、彼はコリント教会の問題が心配でマケドニヤへ渡りました(2:12‐13)。

そこで、コリントから戻ってきたテトスと会います。テトスからの報告によれば、コリント教会が悔い改めたということでした(7:5‐16)。この知らせを聞いたパウロは喜び、マケドニヤから書いたのがこの手紙です。

こうした成り行きから遡って、Ⅰコリントが書かれた後1・2年のうちに記されたものとして考えられています。(紀元56、57年頃。8:10,9:2とⅠコリ16:1以下)

パウロの権威への攻撃


Ⅱコリントの手紙の基調をなすのは、パウロのコリント教会が悔い改めたことへの喜びと感謝についてですが、10章以下を見ていきますと、そこにはパウロの使徒的権威を批判する人々に向かって自らの権威を擁護する激しい言葉が記されています。

記事の整合性から複数の手紙によって構成されているという説もありますが、その問題の中心は、パウロの使徒性についてです。
なぜ、パウロが自分の権威について弁証しなければならなかったのかといえば、コリント教会に混乱をもたらしたユダヤ人キリスト者の存在がありました。

コリント教会を揺るがしたユダヤ人キリスト者

彼らは、自分たちこそ権威であるかのように他教会の推薦状を携えて乗り込んでやってきたのです(3:1,12:11)。
その信仰の詳細は不明ですが、彼らの特徴は以下のとおりです。

  1.  彼らは自らの能力や資質を誇っていた(5:12、11:22‐23)

  2.  自分たちを「大使徒」と自称していた(11:5、12‐15,12:11等)

  3.  パウロの福音とは「別のイエス」を宣べ伝えていた(11:4)

  4.  パウロの能力・資質を批判した((10:1‐2、10‐12)

  5.  パウロの金銭の取り扱いへの疑惑を捏造し、信徒をパウロから離れさせようとした(12:16)

こうした、偽使徒たちに対するパウロの弁証はいかなるものであったのかといえば、『弱さを誇る』という点で一貫していました。

彼は、悔い改めたコリント教会に語る場合にも、自称「大使徒」たちと対決して語る場合にも使徒職としてのの栄光を語りつつも、自らの弱さを通して主イエスの栄光が現れることを伝えています。(4:7、12:10等)

弱さの神学を強調するパウロ

使徒としての栄光は、自分の学識や家柄、出自といったこの世での評価ではなく、あくまでも使徒の栄光の中心は『福音とキリストの素晴らしさ』にあることを語ります。

なぜならば、自分が身につけているものは、『塵芥(ちりあくた)』とした
パウロの思想は、人間的かつ人間の外側につけるような実績や肩書のような付属するものよらないということで一貫しています。

ピリピ人への手紙3:8-9
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです

彼の神学の中心は『人間としての弱さ』に基づいていることです。
このⅡコリント人への手紙は、パウロの使徒論を通して福音の素晴らしさを語ると同時に、権威が中心であるかのように取り扱われる使徒論を超えて、人の弱さを通して働く神の恵みの栄光を力強く語るこそが、使徒としての特権であるとして書かれた手紙なのです。

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒


Ⅱコリ1:1
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。

さて、第二コリントの前置きが長くなりましたが、ここからが本論です。
ところで、1章1節を見ていきますと、パウロの自己紹介であることがわかります。しかし、さきほどの第二コリントについての緒論を通して見ていくと、この書き始めの意味が深まります。

『神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ』という紹介は、パウロ自身の使徒職としての紹介とともに、その使徒職が、『神のみこころ』によるものであるということを証言していることです。神学校を出たから、学位を取得したから使徒とされているということではないということでもあります。さらにいえば、『神のみこころ』ですから、当然のことながら、『自称』ではないということです。

みこころの正体とは

ここで、パウロは使徒としてのあり方を保証しているのは、『神のみこころ』であると言います。

ところで、『みこころ』とは一体どういう意味でしょうか。ギリシャ語では、セレマと書かれています。その意味は、「願望であるとか、好ましい意志」という意味になります。さらに深めていきますと、セレマとは、主が最も善いもの、相応しいものを人々に提供し、その提供したものを受け入れるか、それとも拒否するかの選択を求めるときに使われる言葉です。

気づいた方もいるかと思いますが、セレマとは、福音が語られる時に、信じるか、拒否するかという人間の選択を求められる時に使われる言葉だということです。

いわば、福音を伝えるために召されたパウロという存在は、人々がイエス・キリストの福音を信じて救われるか、それとも滅びるかというメッセージを託された任務を帯びているということを宣言する言葉が『みこころ』(セレマ)であるということです。人間が霊的に生きるか、それとも滅びるのかを福音を聞いた人が決定的に決断するように特別に使わされた人物がパウロであるとこの1節において自己紹介しているということです。

イエス・キリストの使徒とは

さらに、パウロ自身は、『神の使徒』であるとは言わず、『キリスト・イエスの使徒』であると証言していることです。どういうことかといいますと、福音を聞いて救われるのは、イエス・キリストの御名を信じるかどうかにかかっており、イエス・キリストを拒むものは滅びに至るという意味をもセレマにはあるということです。イエス・キリストの福音を伝える者としてパウロが選ばれたということを、この1節の短い節から宣言しているのです。

神の救いの言葉を託され、人々に告げ知らせること、そのために使わされた人物が使徒であって、使徒は教団を指導する指導者や上に立つことが主たる役割ではないことが、ギリシャ語から理解することができることです。

ところで、使徒を指すアポストロスの動詞形アポステンローは、特定の使命を与えて送り出すことを意味しています。
アポステンローは派遣された人の使命・任務・責任を通して送るという意味があります。わかりやすく言えば、特定の職権・任務を委任された外交官や大使の姿と言ってもいいでしょう。外国に本国のメッセージを伝えるために使わされた人物、これがアポストロスの正体です。
つまり、使徒パウロというのは、天の御国という本国からの指令を、この地上という外国に向けて送られた外交官としての役割を『使徒』(アポストロス)と表明しています。

クリスチャンに向けられたみこころ

この節から見えることは、直接的にはコリントの教会に対して、決然とした神の意志がセレマという言葉のうちに見ることができます。私たちは、自由意志が与えられているからといって、自分のやりたいことに注いだとしても、神はどこか大目に見てくれているに違いないという思いで神を捉えてはいないでしょうか。

実は、ここでのパウロの語るセレマ(みこころ)とは、信じるのか、信じないのかといった未信者に対する手紙ではありません。
直接的には、クリスチャンに対して決断を求める言葉でもあります。

あなたはどちらを選ぶのかということです。
自分の意志に従って歩む道を選ぶのか、それとも、聖霊が示す道を歩むのか選択しなさいという意味がセレマの暗喩として示されていることです。

神のみこころに対して葛藤はしていないでしょうか。自分のやりたいことと神が求めることとの乖離に悩んではいないでしょうか。

神のみこころによって、恵みと平安が与えられていきますが、 恵み「神の好意」は、信仰をもって歩む信者に、神の確かな平安をもたらします。 すなわち、主のみこころを選び、それに従うときが平安ということです。具体的には、主は、私たちが自分の時間やお金などを主が好まれるように使っていることを確認するために平安を与えてくれるので、何か、やましい思いや罪悪感を持つときは、みこころから離れているというように理解できます。

いかがでしょうか。信仰生活においてモヤモヤすることは多く、すっきりしないことばかりと思う方が大勢かと思います。実は、私もその一人であるわけですが、神が私たちに良くしたいという思いで、恵みを与えようとしておられるのにも関わらず、それ以上に、自分の欲を優先させている心があるのではないかと思うのです。

神のみこころはシンプルです。神を取るのか。自分を取るのか。平安よりも、自分の欲を通したいのか。あなたのしようとすることが、神の望みであるかどうか。そこを問うているのではないでしょうか。

神は、私たちにチャンスを与えておられます。それはどんな言葉であるのかといいますと、黙示録の言葉を紹介しますが、

黙 3:19
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

真剣になって、みこころから離れているかどうかを点検しなさいということです。もし、みこころから離れていたら、私たちは熱心に悔い改める必要があるということです。悔い改めるということは、すなわち、神の方に向くということです。

この1節に示された『神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ』という言葉の背景には、真剣になって、パウロの言葉に耳を傾けて、神の方に立ち返りなさいという意味が込められていることです。

いかがでしょうか。この言葉は、きわめて現代的ではないかと思うのです。私たちの信仰の内側から見えてこないもの。それは、神に向かう姿勢、すなわち悔い改める姿勢ではないでしょうか。今あなたは、聖霊の小さき声を聴いていますか。雑音で聖霊の声を見失ってはいないでしょうか。今すぐ、イエス・キリストのみもとにひれ伏し、主の方に向かう決断をしてはいかがでしょうか。
イエスはあなたが戻ってくることを待っておられます。アーメン。