ペテロ第一の手紙 2章21節 人生は孤独ではない イエスの足跡をたどる旅
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【新改訳改訂第3版】Ⅰペテ2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
Text 本文
εἰς τοῦτο γὰρ ἐκλήθητε, ὅτι καὶ Χριστὸς ἔπαθεν ὑπὲρ ὑμῶν, ὑμῖν
エイス トゥト ガル エクレセーテ,ホティ カイ クリストゥス エパセン ヒュペル ヒュモーン,ヒュミン
ὑπολιμπάνων ὑπογραμμὸν ἵνα ἐπακολουθήσητε τοῖς ἴχνεσιν αὐτοῦ:
ヒュポリムパノーン ヒュポグランモン ヒナ エパコルーセッセテ トイス イクネシン アウトゥー
信頼できるリーダーとは
多くの人は、会社勤め、あるいは人に雇われて仕事をしていることかと思います。そうした職場で、上司が部下に仕事を依頼されることがあります。ところで、上司が部下に仕事を言いつけて、自分では仕事を全くせず、他の上司たちや他の社員たちと無駄話をして時間を潰していたとしたらどうでしょうか。仕事を言い渡された方としては、全く納得できませんね。上司が仕事を命令する前提として、上司がその責任を果たし、責任ある仕事をしているならば、上司の命令にも素直に従えるでしょうが、上司が、仕事をする上で一生懸命働かず、いい加減な姿を見せていたとしたら、部下は上司についていこうとはしないでしょう。キリストは、そうした上司の姿とは異なり、私たちのために十字架にかけられたということは、キリストは、私たちのために必死に働いたということです。私たちの救いのためにどれだけの苦労をしたかということを私たちは知ったとき、私たちは、キリストのためのどんな苦労をも厭わないのではないでしょうか。
さて、今回は、『人生は孤独ではない――― イエスの足跡をたどる旅』というテーマで語りたいと思います。本当は、『足跡』というテーマにしたかったのですが、漠然としていますので、こうしたテーマにしていきたいと思います。
私たちが救われた理由 εἰς τοῦτο γὰρ ἐκλήθητε
TEV訳では『神があなたを呼ばれたのはこのためでした。』と私たちが救われた理由を述べています。なぜ、クリスチャンは、なぜ救われたのでしょうか。ペテロは、13節から20節にかけてペテロは『権威に従うこと』について述べてきました。権威に従いなさいペテロは言いましたが、その一つ一つを見ていきますと、苦難がつきまとう事実があったことが浮き彫りになりました。人間はともすると人に仕えることよりも、人の上に立って人を支配することを願います。使われるより使うほうが人間にとっては心地良いからです。ペテロはもとより聖書は、なぜ、人の上に立つことよりも仕えることの重要性をなぜ伝えたのでしょうか。
ところで、クリスマスはよくご存知でしょう。実に素晴らしい世界的な祭りとして祝われます。楽しい、嬉しい祭典として私たちの記憶にあります。ところが、神の側に立つとどうでしょうか。神のひとり子イエスは、創造主なる神ご本人でしたが、こともあろうか、天から地上に降りられるということをしました。雲に乗って、自分は神であり、権威あるものとして宣言するならば、人もイエス・キリストを神として敬い額づいたかもしれませんが、神の御心はそうではありませんでした。無力な、嬰児として来られたのです。常識的に考えて、赤ん坊が神とは誰も信じはしないでしょう。しかも、生まれた場所が場所です。糞尿にまみれた家畜小屋の中です。寝かされたベビーベッドは、これまた糞やよだれがこびりついた飼い葉桶の中です。とても人間が生まれるに相応しい場所ではありません。現在ならば、虐待と言われてもおかしくない案件です。人間の文化的な生活を営む上で必要とされる水準を遥かにこえた最低なお生まれでありました。なぜ、神はイエス・キリストのお生まれをこのように設定したのでしょうか。それは、人に仕えるために遣わされたからでした。神は最高の権威者であるのにも関わらず、人間の地位よりも下に自分を置いたのです。
実は、私たちが召された(救われた理由)はここにあります。イエス・キリストは人の上に立つために降誕、受肉されたのではないということです。受肉した理由は、自分よりも他の人の下に位置すること、すなわち人に仕えるためであり、それが神の御心でありました。それは、自由人も奴隷も区別はありません。どの人も救われたクリスチャンであれば、キリストの仕えるための苦しみ(人に仕える)を受けるということがこの箇所で明確に示されたのです。
私のために苦しみを受けたキリスト
Χριστὸς ἔπαθεν ὑπὲρ ὑμῶν
どのような苦しみを受けるのかと言いますと、Χριστὸς ἔπαθεν(クリストス エパセン)とあります。キリストの苦しみという意味です。前回パスコーという単語に触れましたが、今回21節では、活用形のἔπαθεν(エパセン)となっています。この原型パスコーの意味は、passionの語源にあたる言葉です。パッションは、情熱とか熱情と訳されますが、キリストの受難を示す言葉です。元々は喪に服す、深い悲しみや苦しみの意味が込められています。つまり、私たちは、キリストの受難の苦しみにあずかるということです。
Χριστὸς ἔπαθεν(クリストス エパセン)の後に、ὑπὲρ ὑμῶν(ヒュペル ヒュモーン)とあります。この意味は、『あなた方のために苦しみを受け』と新改訳では訳されています。つまり、イエス・キリストの十字架の苦しみは、私たちのためであったという意味になります。ここで注意したいのは、キリストは「あなたのために」苦しんだと書かれていますが、正確な意味では、「あなたの代わりに」という意味ではなく、「あなたのために、あなたのために」という意味になります。私たちに対するキリストの贖いは、この箇所では身代わりという意味ではないのです。私たちが苦しむ前に、イエス・キリストが『私のために』苦しんだということです。
私たちは、なかなかその意味を私たちは理解できないものですが、罪人である私たちは、人から受けた被害についてはよく理解できるものですが、自分が、他人や神に対して行った、あるいは心のなかで思った罪というものはわかっていないものです。しかし、心の中を洞察していくと、生きるということは罪を重ねていくことです。こうして、今も息をするごとに罪を重ねていく、これが私たちの人生の裏の顔というものだと感じます。こうした人生の裏にある罪の営みの中に、キリストが救いをもって介入してくれた。最高の権威者であるのにも関わらず、私たちに額づいて、死に至るまで奴隷となられ苦しまれた。私たちはイエス・キリストに対する愛は乏しいかもしれない、しかし、私たちを愛してやまないイエス・キリストは、直截的に具体的に私たちを今も愛し続けてくださっているわけです。
模範を残したイエス
ὑμῖν ὑπολιμπάνων ὑπογραμμὸν
次に、私たちの罪のために受難したイエス・キリストは、次の箇所で、『あなたがたに模範を残されました。』(新改訳)とあります。
ギリシャ語本文を見ていきますと、単語の頭に『ヒュ』と付きます。ヒュ・ヒュ・ヒュと3つの単語が並んでいることに気がつくでしょう。ペテロは大事な意味に対して韻を踏ませる傾向があるように思うのです。ここでは、3つのヒュを見ていくことにします。
まず、最初のヒュですが、ヒュミンとあります。これは、『私たち』という意味ですが、具体的には「あなた」です。「あなたに実例を残します」という意味が直訳ですが、このヒュミンはギリシャ語で強く強調されている意味をもちます。ついで、二番目のヒュはヒュポリムパノーンです。これは「残す・去る」という意味になります。3つ目のヒュポグラモーンは、接頭辞ヒュポと『書く』という意味のグラフォーがもとにある言葉で、ここでは『模範』と訳されますが、詳しくは、主に子供が字を覚えるための「アルファベットの手本」、または見取り図を詳細に実行するために提出された「計画」を意味します。
つまり、『あなたがたに模範を残されました。』という言葉には、キリストは十字架の苦しみという手本やマニュアルを残したということがその意味になりますが、ヒュポリムパノーン・ヒュポグラモーンの接頭辞ὑποには、「隠されていたことが明らかになる」という意味がありますので、『キリストの出現により、救いという手本が明らかにされ、マニュアルが残された』という意味が込められています。その手本というのは、神の計画に沿ったものであり、それは、神のみことばである『聖書』であるわけです。キリストによる救いの道が、キリストによって明らかにされたことが、接頭辞ὑπο(ヒュポ)の意味するところであり、神の計画であるわけで、それはつまり、神の御心であるのです。
私たちがキリストの苦しみに預かるように召されたのは、神の御心でもあるということになります。
イエスの足跡をたどる
ἐπακολουθήσητε τοῖς ἴχνεσιν αὐτοῦ
『その足跡に従うようにと、』(新改訳)訳されるこの箇所は、先ほど示した『手本』に従うように勧められています。「従う」と訳されるエパコルーセーセーテという言葉は従うという単語の強意形であり、1テモテ5:10では「熱心に従う」と表現されています。キリストとの緊密なつながりの中で従うことを意味し、リーダーとフォロワーとの間の個人的な(特定の)つながりを強調する言葉です。キリストと私たちの関係は、深い関係性の中で、キリストについていくという意味がここで込められています。エパコルーセーセーテには、「犬」という意味も含まれますが、まさに忠犬ハチ公のような存在が、私たちであるというのです。
では、私たちは何についていくのでしょうか。ここで、イクネーシンという言葉があります。原型イクノスには、「前に進み、到着する」という意味があり、正しくは、足の裏によって作られた形つまり、足跡。 (比喩的に)他の人が従う必要のある例を提供すること、特に「神の信念」(彼の信仰の働き)を生きること。したがって、信仰と「信仰の足跡」は直接結びついていると辞書にはありました。
こうした意味を見ますと、『その足跡に従うようにと、』と訳された言葉には、イエス・キリストが開いた救いの道は、すでにキリストが切り開きましたから、あとは聖書の御言葉というマニュアルを読んで、キリストの道をたどりなさいというようなものではありません。自己責任で一人で人生を歩んで行きなさいというような突き放したような言葉ではないのです。飼い主なる主は、私たちと常に共に歩まれ、私たちの先に方向性を示し、キリストとの緊密なつながりの中で、ゴールに向かって主の後についていくことを意味していますから、神は、常に私たちとともにそばに寄り添い歩んでくださるというようにイメージできます。
私たちの救いの神は、困難の中であっても幾重にも私たちを守ってくださる、しかも、どんなに苦しいときにも突き放したり、放置したりはしないのです。しかも、私たちの死から永遠のいのちというゴールまでのマップを私たちに示してくださったという深い意味が込められているということです。ですから、私たちは、キリストの受難の苦しみを受けることができます。一人で苦しむのではないですから。
画像:Wikipedia『くびき』より
キリストを信じることによる苦しみは苦しみで終わるものではありません。苦しみを喜びに変えてくれるものです。ペテロが宛てた直接の読者たちは、迫害やいのちの危機に常にさらされていましたが、彼らは、その苦難を喜びに転換することができました。マタイ11:29『わたしのくびきを負って、~そうすればたましいに安らぎが来ます。』とありますが、キリストは私たちとともに苦難を分かち合ってくれます。自分の苦労を分かち合ってくれる人がいたら、どれだけ心強いし、苦痛を超えて喜びに包まれるのではないでしょうか。イエス・キリストが十字架に架けられたとき、2人の強盗もともに十字架に架けられていました。その記事を下記に示しましたが、
「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言った強盗は、キリストの御側にいて、悶絶するような苦しみの中、喜びに包まれていたのではないかと思います。絶体絶命の中にすら、私たちは希望を持ち続けることができます。
イエス・キリストは私たちの隣にいて、支えてくださるからです。
Translation 聖書対訳
【NKJV】
1Pe2:21 For to this you were called, because Christ also suffered for us, leaving us an example, that you should follow His steps:
これに対してあなたは呼ばれました、なぜならキリストも私たちのために苦しみ、私たちに例を残して、あなたは彼の足跡に従うべきであるからです。
【TEV】
1Pe2:21 It was to this that God called you, for Christ himself suffered for you and left you an example, so that you would follow in his steps.
神があなたを呼ばれたのはこのためでした。キリストご自身があなたのために苦しみ、あなたに模範を残したので、あなたは彼の歩みに従うでしょう。
Lexicon レキシコン
εἰς,p \{ice}
1) into, unto, to, towards, for, among
τοῦτο οὗτος,rd \{hoo'-tos}
Case A Number S Gender N
1) this, these, etc.
γάρ,c \{gar}
1) for
ἐκλήθητε καλέω,v \{kal-eh'-o}
Person 2 Tense A Voice P Mood I Number P
1)呼ぶこと1a)声を出して呼ぶ、大声で発声する1b)招待する2)呼びかける、つまり名前を付ける2a)名前を付ける2a1)名前を受け取る、名前として受け取る2a2) ある人に名前を付けるには、彼の名前を2b)と呼びます。つまり、名前または肩書きを付ける(男性の間で)2c)名前で敬礼する
ὅτι,c \{hot'-ee}
1) that, because, since
Χριστός,n \{}
Case N Number S Gender M
1) Christ was the Messiah, the Son of God 2) anointed
ἔπαθεν πάσχω,v \{pas'-kho}
Person 3 Tense A Voice A Mood I Number S
1)影響を受けている、または影響を受けている、感じている、賢明な経験をしている、1a)良い意味で、裕福である、良い場合1b)悪い意味で、悲しいことに苦しんでいる、悪い状態にある 病人の窮状1b1)
ὑπέρ,p \{hoop-er'}1)
1)に代わって、2)を超えて、超えて、3)を超えて、超えて
ὑμῶν σύ,rp \{soo}
Case G Number P
1) you
ὑμῖν σύ,rp \{soo}Case D Number P
1) you
ὑπολιμπάνων ὑπολιμπάνω,v \{hoop-ol-im-pan'-o}
Tense P Voice A Mood P Case N Number S Gender M
1)去る、置き去りにする
ὑπογραμμὸν ὑπογραμμός,n \{hoop-og-ram-mos'}
Case A Number S Gender M
1)アルファベットの書き方を学ぶための手本 2)1つの前に設定された例
ἵνα,c \{hin'-ah}
1) that, in order that, so that
ἐπακολουθήσητε ἐπακολουθέω,v \{ep-ak-ol-oo-theh'-o}
Person 2 Tense A Voice A Mood S Number P
1)フォローする(閉じる)、フォローする2)自分の足跡をたどる、つまり彼の例を模倣する
ὁ,ra \{ho}
Case D Number P Gender N
1) the 2) this, that, these, etc
ἴχνεσιν ἴχνος,n \{ikh'-nos}
Case D Number P Gender N
1)フットプリント、轍、足跡 2)いずれかの例を模倣する
αὐτοῦ αὐτός,rp \{ow-tos'}
Case G Number S Gender M
1) himself, herself, themselves, itself 2) he, she, it 3) the same