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最初の主日礼拝

2024年4月7日 礼拝

タイトル画像:Sebbi StrauchによるPixabayからの画像


ヨハネによる福音書20章19節―23節


20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)


はじめに


信者のみなさま、イースターの喜びがまだ心に響く中、今日は復活祭から一週間が経ちました。この日に集うことで、イエス・キリストの復活の奇跡について再び共に喜び、その喜びを共有できることを感謝したいと思います。

復活の朝、私たちはイエス・キリストの墓が空であることを知りました。その奇跡は私たちに永遠の命と希望をもたらしたことを知りました。
今日、イースターから一週間が経ち、今こうして、主の日を守るということは、私たちの信仰がいかに強いものであり、神の選びのみわざを感じさせます。

今回は、最初の主日礼拝を見ていきたいと思います。最初の主日礼拝はいつ行われたのでしょうか。それはどこで始まったのでしょうか。
そのことについてはあまり知られていないことであるかと思います。今回は主日礼拝の起源とその意味について学んでいきたいと思います。


みなさん、主の復活があなた方に祝福をもたらし、心に喜びを満たすことをお祈りします。主イエス・キリストの復活が、あなた方とあなた方の家族に永遠の平安をもたらしますように。アーメン。

緊張と恐怖が支配する潜伏先


ところで、最初の主日礼拝はいつ起こったと思われますか。
旧約聖書においては「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト20章8節)と命じられ、イスラエルの民は第7日(土曜日)を安息日として守ってきました。

こうしたユダヤ教の伝統から進めて、初代教会は、キリストの復活を記念して、週の初めの日(日曜日)を主日(主の日)として公同の礼拝を行うようになり、今日に至っているというのが日曜日礼拝の起源であろうと言われております。

18節と19節の間には、時間的にはほぼ12時間ほどの間があります。その間に何があったのかといえば、イエス・キリストの墓番兵に祭司長たちに賄賂を上げたことや(マタイ28:11-15)、クレオパともう一人の弟子が、エマオに向かう途中で復活の主に出会った記事(ルカ24:13-35)があります。そうした事象が起こったあとの記事です。

ヨハ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

失意と恐怖に陥る弟子たち

イースターの夕方に、弟子たちは、自分たちの主を十字架で失ったという失意に加えて(参照ルカ24:20‐21)、弟子たちは自分たちもやがては逮捕されるかもしれないという恐怖におののいていました。そのため、彼らは戸を閉じて家の中にこもっていました。

19節に「ユダヤ人たちの恐れ」とありましたが、それはゲッセマネの園に起こりました。羊飼いは打たれ、群れは散り散りになりました。
彼らは、自分たちが迫害されることを預言しておられた御自身の言葉(ヨハネ15:18他)も思い出していたでしょう。

ヨハネによる福音書
15:18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。

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また、彼らもイエス・キリストの弟子として、共謀罪といった容疑がかけられていたようです。

ヨハネによる福音書
18:8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」

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また、ペテロは、ゲッセマネの園でのイエス捕縛の際、阻止しようと大祭司のしもべの耳を切り落とした暴行の罪で逮捕される可能性がありました。

ヨハネによる福音書
18:10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。

18:26 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
18:27 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。

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弟子たちにとっては素直に喜べない復活

マタイによる福音書
28:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。
28:14 もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
28:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

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主イエスの復活は、当時の弟子たちにとっては必ずしもプラスに働いたとは言い切れませんでした。事実、復活の報せが広がると、祭司長たちは番兵たちからの報告を受け、弟子たちがイエスの遺体を盗んだとの虚偽の情報を流すように賄賂を贈りました。このような虚偽の情報が広がると、弟子たちは逮捕され、尋問され、虚偽の自白を強要される可能性がありました。

歴史的に見て、権力を持つ側が自らのストーリーに合わせて冤罪を行うことはよくあることであり、ユダヤ教指導者たちが弟子たちを逮捕し、「イエスの遺体を盗んだ」という虚偽の自白を得ることで、ユダヤ教の崩壊を防ぎ、同時に体面を保つことができると考えられました。

したがって、弟子たちの逮捕は、ユダヤ教指導者たちの望むところでもありました。

しかし、弟子たちが逮捕されることはありませんでした。聖書には記されてはいませんが、おそらくは、ローマ総督ピラトが嫌疑不十分ということでユダヤ教指導者たちの逮捕請求を退けたのでしょう。そうしたところにも神の守りの確かさというものが感じられます。

初めての主日礼拝


19節の「弟子たちがいたところ」とありますが、彼らはエルサレムでは、マルコの家以外に泊まる場所はありませんでした。ここは最後の晩餐の舞台でもあり、この場所でイエス・キリストは彼の使徒たちと最後の晩餐を執り行います。そして50日後の五旬節の日に、聖霊がイエス・キリストの使徒と男女を問わず全ての弟子たちに下ったのもこの場所でした。ですから、このエルサレムにあったマルコの家は初めての教会であり、主日礼拝が初めて行われたと考えられています。

そのキリスト教史的に重要な場であるマルコの家の扉や窓は固く閉じられていました。それはまるで、過激派のアジトと犯人を思わせるようなものでした。いつ逮捕状がくだり兵隊が駆けつけ逮捕されてもおかしくない状況の中、マルコの家の中は息を潜めるような張り詰めた緊張感と空気が漂っていました。

そうした息が詰まるような中にあって、『イエスが来られ、彼らの中に立って』と19節にはあります。ここを読むと、私たちはマルコの家に復活のイエス・キリストが現れたのかとそのまま受け取ってしまうものですが、復活のイエス・キリストの様子を詳しく見ていくとそれほど単純なものではありません。

霊肉のからだを持つキリスト

イエスは閉まっている扉を通り抜け、家の中に入ってこられました。物理的な肉体を持った人間は、固くしまったドアを入ることは不可能です。量子力学では、そうしたことは可能であると言われていますが、現実の世界ではありえないことです。なぜ、イエス・キリストは固く閉じたドアから入ることができたのでしょうか。

それは、血肉のからだから御霊に属するからだへと復活されたためと言われております。

Ⅰコリント人への手紙
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

こうして、復活のからだは霊のからだであることから、扉を通り抜けることができたというわけです。

しかし一方で、イエス・キリストの復活のからだには地上での肉体と同じように十字架の傷跡があることを見ますと物理的な特徴も持っていたということです。(ヨハ20:20)

ヨハネによる福音書
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

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つまり、イエス・キリストの復活のからだは、物質を透過できる性質もあり、同時に見て触れることのできる霊肉を併せ持ったからだであったということです。

ここで、先ほど示したⅠコリント15:44の新改訳聖書の訳を見ていきますと、からだと表記しています。からだと訳された言葉は、σῶμα(ソーマ)という言葉になりますが、それは、単に肉体という意味だけでなく、キリストの神秘的な体すなわち、教会、神の唯一の民といった比喩としても使われる言葉です。

私たちは肉体と精神の一体であり、それは日々の聖さの追求において非常に大きな意味を持つ。 したがって、信仰に生きるとは、肉体から逃れることではなく、むしろ「肉体(肉体生活)を通して」神に生きる(仕える)ことなのである。 それによって、神との交わりがますます深まるのである(2コリ5:10、Gk本文参照)。
[私たちは "からだを通して(1223/diá)"神をあがめるように召されている(2コリ5:10)。

New American Standard Exhaustive Concordance of the Bible
Robert L. Thomas (Author), Th. D. (Editor)

からだ(ソーマ)という言葉を見ていくときに、私たちが肉体と精神の一体であることが強調されています。また、信仰に生きることは、単に肉体から逃れることではなく、むしろ「肉体(肉体生活)を通して」神に生きること、すなわち仕えることだといいます。これによって、神との交わりがますます深まるのです。

ここで、イエス・キリストが復活のからだを通して現れたということは、私たちに対する奉仕であり、また同時に神の栄光をあらわすことでもあり、父子の不可分な関係性を表しているということでもあります。

こうした理解に基づいて、主イエス・キリストがからだを通してマルコの家に現れたことは、礼拝の基本を私たちに示したということです。つまり、私たちの生活の中で、肉体と霊を通して神を礼拝し、仕えることが重要であることを示しています。

このような視点から、礼拝は、お決まりであるとかお約束ではなく、私たちの肉体的な行動や活動を通じて神の愛と栄光を表現する行為ともいえましょう。

ローマ人への手紙
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

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平安があなたがたにあるように


エイレーネ ヒュミーン

最初の主日礼拝で、主が語られたことは何であったでしょうか。それは、『平安があなたがたにあるように。』Εἰρήνη ὑμῖν(エイレーネ ヒュミーン)という言葉でした。この言葉は、ユダヤの一般的な挨拶とされています。しかし、イエスは単に挨拶として平安を神に願うのではなく、イエスご自身が平安を与えて下さるのです

この挨拶はルカ24:36(ただし、ギリシャ語本文。新改訳聖書ではなぜか省かれてます。)にもありますが、イエス・キリストが生前弟子たちに語られた挨拶の言葉は、その優しくも親しみのある声が彼らの耳に届いた時、彼らのただ中に主がおられるという心の安らぎを覚えたでしょう。

他方、この言葉は、霊界からのメッセージという意味もあります。それは、天国からの呼び声であり、生きている者が見ようとしても無理であったあの世からの平安をもたらす声でもあります。

それは、死を征服し、完全に死に勝利した方の人間へのメッセージであり、勝利は勝ち取られたと宣言する声でもあります。
それは同時に私たちの罪からの勝利をもたらす贖罪のメッセージであり、赦された罪と神との和解から流れ出る平和を、弟子たち自身に与え、そして彼らを通して平和の使徒として全人類に宣言した言葉でもあります。

主日礼拝最初のメッセージの内容

ヨハ
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

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主日礼拝での最初のメッセージの内容について21節から記されてますが、

主イエス・キリストは、弟子たちに中に臨在し、弟子たちに与えられた特別な権威と責任について述べました。弟子たちはキリストによって遣わされ、聖霊を受けることで、「罪の赦し」と「罪がそのまま残される」の権限を持つといわれました。この2つの単語は受動態ですから、神が罪を赦し、神が罪をそのままにされるということです。

こうした権威は、キリストご自身が弟子たちのうちにおられることや、聖霊の力によるものであり、弟子たちの権威は神に依存しているということです。こうした神の権威によって私たちは遣わされ、今も世界に対する宣教の命令があり、直接的には使徒に語られましたが、同時に私たちに対する命令でもあります。

初めての主日礼拝では、復活のからだをとったイエス・キリストがメッセージをしてくれ、そして、私たちが先が見えず恐れや不安にとらわれている状態でも、「平安があなたがたにあるように」という言葉を贈ってくださいました。この時、私たちは目には見えないけれども、主が私たちと共におられることを確信し、聖霊に満たされながら礼拝を捧げるのです。

復活の主イエス・キリストは、死者の中からよみがえり、私たちに希望と新しい命をもたらしてくださいました。彼の御言葉は、私たちに永遠の命と神の愛のメッセージを伝えています。そして、彼は私たちに平安を与え、私たちが直面する恐れや不安を取り除いてくださいました。

しかし、この平安は外的な状況に左右されるものではありません。私たちの信仰と希望は、主イエス・キリストの復活とその約束に基づいています。主が私たちと共におられ、私たちを見捨てることはありません。そのため、私たちは聖霊に満たされ、喜びと感謝を持って礼拝し、主の栄光を称えるのです。

この主日礼拝の時、私たちは目には見えないけれども、主が私たちと共におられることを確信し、その恵みと愛を受け入れます。そして、主の力と導きによって、私たちは信仰を堅く保ち、希望に満ちた生活を送ることができるです。アーメン!